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【死者8人】放火の前科と幼女誘拐 前田誠

戦後の少年の死刑判決事件で放火の事例は殆どない。確定囚では未遂が一件。二審で無期になった例も一件あるだけ。
今回は少年時代に放火で7人を焼死させ、出所後に幼女を誘拐殺害して一審で死刑判決を下された男の話を書いた。

児童養護施設放火事件

昭和24年1月17日の寝静まった深夜1時半頃に長崎にある聖母の騎士園という児童養護施設から火が上がった。
その日は吹雪いていた不運も重なり火は瞬く間に燃え広がり、消防団が駆けつけて約一時間後に消し止められたが騎士園建物、元三菱造船工員寮など二階建ての四棟を焼き尽くし、隣接する中学校にも飛び火し一棟が焼失した。懸命の救助消火活動もむなしく施設の孤児7名が犠牲になった。
食堂のストーブが火元の火災として処理されたが、三年後の昭和27年2月に出火当時騎士園に入所していた男が「自分が火をつけた」と自首をした。18歳になり施設を出たあとに横浜に流れ着いていたが警察署の前を通りかかった際に急に良心の呵責に苛まれての自首だった。
男の名前は前田誠。放火事件の時の年齢は16歳で事件後も施設を出るまで聖母の騎士園に入所していた(事件後に修道院に一時的に引き上げその後移転し現在の場所で運営)
昭和29年1月28日長崎地裁で求刑どおりの懲役3年の実刑判決を言い渡されて佐世保刑務所に収監された。
昭和31年5月1日に服役態度もよく満期前に仮出獄したが、前田はまたもや犯罪行為に手を染めてしまう…
【長崎日日49.1.18】【長崎日日54.1.29】

長崎幼女誘拐殺人事件

昭和38年3月19日夜、長崎市のMさんの二女(6)が行方不明になったと警察署に届け出があった。
近隣への聞き込みで二女が前田に連れられて歩いている所を目撃した人がいて、前田の行方もわからずに重要参考人として手配された。
前田は同市で左官見習いをしていたが、仕事場には姿を見せずに二女が行方不明の当日に聖母の騎士園にふらっと現れて一泊したのちに翌日に国道で見かけた情報を最後に前田も姿を眩ましていてた。
22日に大村市で人夫が木にかけてあった弁当を盗んだ所を見つかり急報で駆けつけた大村署員に逮捕された。
公園や山中で野宿し空腹での盗みだった。
19日の午後3時頃に二女をいたずら目的で連れ去り、三河町の山中で乱暴後に(幼女の)両親にバレたらどうしようと思い首を絞めて殺害。遺体は草を被された状態で前田の自供通りの場所から発見された。
同年7月15日 長崎地裁 求刑通りの死刑判決
「極悪非道で社会に不安を与えた影響も大きく再犯の恐れがある」
昭和39年4月6日 福岡高裁 一審破棄の無期懲役判決
「前科での刑務所生活は模範で社会復帰の可能性はある。人間錬成の機会を与えたい」

双方上告をせずに確定した。

【長崎時事63.3.21~23】【長崎時事63.7.16】
【長崎時事64.4.7】【昭和38年(わ)113号】

前田誠という男

前田は内向的で口数も少なく人付き合いも殆どなかった。被害者幼女ら近所の子供とは顔見知りで「マコちゃん」と呼ばれてなつかれていた。
文字を書くのが好きという一面もあったが職場の同僚や聖母の騎士園の職員の話では急に激昂するような感情の起伏が激しいタイプ
14歳の時に両親を失い福岡の孤児園に引き取られたがしばらくして逃げ出し、大分の孤児収容施設でも長続きせずに放浪後に長崎の聖母の騎士園に流れ着いた。
騎士園では厳しい規律に耐えられず15歳のころに同園の少女を連れ出し数日裏山に隠れたりと不安定な生活を続けていたが、16歳の時に些細な事を注意されたことで前田の中の狂暴性が出て火を放ち7人の孤児を焼き殺す事件を起こした。
模範として刑期を7ヶ月残して出所していたが仕事も長続きせずにふらふらとしていた。
前田は精神鑑定では刑を減軽すべき精神障害はないとの鑑定結果で意志欠如型と爆発型の特徴を加味した中等度の精神病質者として一審は死刑判決だった。
爆発的に激情することもあれば自ら志願して規律の厳しい聖母の騎士園に入ったり、刑務所でなんのトラブルもなく模範で過ごしたりと二面性を持ち合わせている前田がその後にどのような人生を歩んだかの記録はないが、死刑を回避したのなら狂暴性が再び現れることはなかったと思いたい…
【長崎時事63.3.24】
※ネットで公開されている判決文が実名のため当記事でも実名を掲載した。



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