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三人殺めても死刑にならない

少年の死刑と無期懲役の境界線はどこだろうか?
実は戦後75年の歴史の中で少年死刑囚の70%は殺害人数が1~2名というデータがある。
直近でも千葉祐太郎、その前の大月孝行(旧姓福田)は死者2名で営利目的の殺害ではない。一方では強盗殺人では死者が1名でも犯行時17歳にも無期懲役が確定している。
今後も判断が難しくなっていくだろうが、過去に三人殺害で死刑を求刑されながら回避した二つの少年事件を今回は記事にした。

粟野町住職夫妻殺害のH山(18)

昭和25年5月20日栃木県上都賀郡粟野町の妙見寺の住職夫妻と雇人の三人が営利な刃物で惨殺されているのが発見された。当初は跡目争いによるもとと思われていたが夫婦円満でトラブルなどはなく、茶碗から指紋が出て聞き込み捜査で事件があった19日から家に帰っていなかったH山(18)を銃剣等所持禁止令で5月30日に検挙。
問い詰めたところ金ほしさから不良仲間の河津(32)と出刃包丁で殺害して金品を奪ったことを自供し河津も同日夕方に自宅にて逮捕された。
河津の自宅からは犯行に使われた出刃包丁が見つかった。
昭和26年2月9日に宇都宮地裁で判決公判が開かれH山に無期懲役が言い渡された(求刑死刑)、共犯の河津は求刑通りの死刑判決がその後に確定している。
実行には関わってないが前日に犯行を話し合った仲間のOは懲役15年だった。
裁判記録がなくて詳しい理由は不明だが従犯が認定されたことが強盗殺人死者3人で死刑が回避された理由と思われる。

設楽町母子三人殺害のF見(19)

昭和32年11月21日午前10時ころ。愛知県北設楽郡設楽町で母子三人が電気コードで絞殺されているのを隣家の住人が発見し通報。
同居していた被害者の弟の姿が見えずに有力参考人として手配されたが同月23日に母親の顔が浮かび良心の呵責で京都にて自首。
持ち出したカメラを豊川で質に入れ金を手にし、プラプラして京都に流れ着いていた。
姉の家に居候している自分が嫌になり、姉が「就職先の世話をする」と言ったことにも「生きていく自信がない」と自暴自棄になり、姉が「なら私もお前のあとを追って死ぬ」と言い争い、夜になり日頃から読みふけっていた探偵モノの推理小説の内容に影響されて犯行に及んだ。
『となりのラジオが11時を打っている。それを聞いたら急に殺意を感じた。やり方は想像にまかせる』という意味不明な書き置きを残していた。
翌年の5月7日名古屋地裁豊橋支部で無期懲役が言い渡された(求刑死刑)
自首した件や反省の態度を示した事が死刑を回避した理由と思われる。

他にも少年法が改正されたことで一審死刑から控訴審で無期になった者や恩赦により死刑を回避した者などが数名いる。

出典:【読売栃木50.5.21~23と31、51.2.10】
【栃木県警察史下巻】
【読売中京57.11.24】【朝日愛知58.5.8】

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