見出し画像

㉒【脱獄】逃げる男 中島英蔵(19)

先に逮捕され死刑執行された共犯者

昭和22年1月23日、中島英蔵(19)は生家が隣家の幼な友達の中島謙治(20)と共謀し大阪市東成区で知人の看板屋で一泊した際に就寝中の主人(60)を野球バットで殴打し、電気コードで絞殺。それを目撃した養子(12)もマフラーで窒息しさせ金品を奪った。【刑集37巻6号】
【昭和27年11月30日大阪新聞】
【昭和22年1月25日朝日大阪版】
※大阪新聞では謙治が弟となっているが上告審の趣意書の生年月日から誤報と判断しました。

共犯の謙治は先に捕まり、「主犯は英蔵で自分はそそのかされてついていっただけ」と主張し同年9月の一審判決は無期だったが検察控訴で翌年3月の高裁で逆転死刑判決。
昭和23年11月9日に「死刑は残酷な制度で主犯は英蔵」と上告したが棄却され確定。英蔵が逃亡中の昭和24年11月30日午前に死刑が執行されている。遺体はO大学に送られた。
同一事件で死刑確定も執行も時期が別々なのはかなり珍しいケース
【日本の死刑】【集刑5】【GHQ文書】

偽名での服役

逃走中の英蔵は広島の呉市で強盗を働き、なんとこの時は偽名を使い、広島刑務所で2年服役し強盗殺人の罪がバレずに済んだ。出所後にまた広島市で強盗を働き逃走先の宮城県で昭和27年4月21日に逮捕され、ようやく5年前の強盗殺人が発覚した。
強盗殺人2 
昭和27年9月9日に大阪地裁で死刑判決が下された。
【昭和27年11月30日大阪新聞】【刑集37巻6号】

また逃げた!控訴中に拘置所から脱走

昭和27年11月29日、大阪拘置所1階西側第六十三独房より鉄格子2本を金ノコで切断し、英蔵は脱獄した。
当時の新聞には過密状態(当時密度が日本一)や差し入れ弁当が自由なことなどの問題点が報じられた。
【昭和27年11月29日朝日新聞の朝刊夕刊】

翌日神戸にて逮捕

脱走翌日に神戸生田署の巡査がチグハグな格好をした英蔵を発見し職務質問。
新しいコゲ茶色の背広、ねずみ色のオーバー、靴下無し、白ズック靴
しゃがみながら汚れたズボンを新聞に包もうとしてる所を発見し声をかけたが「スケダキヨシでブローカーだ」と答えたので同行を求めたら、ここでも逃走し、巡査がピストルを構えたらようやく観念した。
英蔵はツバメとタツの入れ墨を両腕にし、上歯に銀歯という特徴を巡査が把握しており検挙に至った。
【昭和27年12月1日朝日大阪版】

大阪新聞53.5.20

金ノコはどのように入手したのか?

この逃走劇を手助けした人物の逮捕記事もある。
逮捕されたのは元情婦のK子(19)だった。英蔵と面会した際に、「差し入れ屋に預けてあるジャンパーは洗濯しなくていい」としつこく言うので、ジャンパーのエリを裏返すとメモが挟んであり、毛筆で金ノコを隠匿する本の背表紙の図が記してあった。そのとおりに本三冊の背表紙に金ノコを入れて9月に差し入れした。
K子は翌年4月、求刑3年で懲役3年執行猶予3年の判決
【昭和27年12月16日読売大阪】※K子は実名報道
【昭和28年4月23日大阪新聞】

裁判で死刑が確定し執行

昭和28年5月19日 大阪高裁 控訴棄却
昭和29年1月12日 最高裁上告棄却
【刑集37巻6号】【昭和28年5月20日大阪新聞】
【集刑91】
控訴審では「主犯は謙治で、自分は見ていただけだ」と主張したが認められず、裁判長に食ってかかる場面も見られたが、「まだ上告審がある」となだめられ退廷した。
謙治と英蔵の弁護人は途中まで同じで、双方が共犯者が主導的立場と主張してるのに同じ弁護人が担当してそれぞれの公判で逆の事を主張するのはおかしいとの趣意も退けられた。

逃げ続けた中島英蔵も死刑判決の現実からは逃げられずに昭和32年6月27日に死刑が執行された。
【死刑執行 新版】
※村野氏の【死刑執行】には85年版と95年新版がある。85年版には中島英蔵の執行日は記されていないのでお求めの際は加筆された95年の新版がいいと思います。


いいなと思ったら応援しよう!