マルヨ無線事件 共犯W崎少年(17)
マルヨ無線事件と尾田信夫死刑囚は事件に関心があれば一度は聞いた事がある有名な事件だが、共犯者の17歳の少年に関しては殆ど触れられていない。
ここではその少年Wについてまとめた。
(尚、尾田の請求棄却のD1-Lawでは実名掲載だが記事中はイニシャルにした)
マルヨ無線事件とは
昭和41年12月5日に福岡市下川端町の電器店に閉店後にに「買った電池のサイズが違っていたから交換してほしい」とW崎が来店し、心よく対応していて油断した宿直の店員男性二名に隠れていた尾田とハンマーや登山ナイフで襲撃し、金品を奪いストーブを蹴って倒して放火し一名を一酸化炭素中毒で死亡させ(焼死とする文献もある)、逃げ出した一名に全治5ヶ月の重傷を負わせた事件で昭和45年12月12日に上告棄却により主犯の尾田信夫の死刑が確定したが、放火の件で再審請求を繰り返していて、日弁連が支援する『冤罪の可能性がある事件』で、尾田が確定死刑囚として50年以上になるという事件
【尾田5次請求棄却のD1-Law判例ID:28015369】
少年W崎(17)
尾田とW崎は広島の少年院で出会い本件犯行に及んだが、少年院内ではW崎は尾田の弟分のような関係で、「狙っている店には数百万の現金がある(虚偽)」と尾田から持ちかけた強盗に乗り気だった。また少年院から脱走することも企てたがこちらは予想より便曹の入り口が小さくて実行できなかった。
W崎は両親と妹弟の8人暮らしで、父は小さいトラック会社で働き、狭い長屋住まいでどちらかといはえば貧しい家庭の放任された環境で育った。
12歳で店荒らしで補導され、15歳では婦女暴行致傷で少年院に行き、退院後にすぐ窃盗で検挙されるという悪行三昧で中学卒業まで広島少年院の常連であった。昭和41年3月15日に退院し、一ヶ月先に退院していた尾田とは頻繁に会っていた。
本件で検挙された時は黒のジャージにビートルズカット、取り調べでは泣きながら白状したと思えば、記者からの質問に平然とした態度(強がる)で答えたりしていた。
下関駅に降り立ち連行される際は堂々と歩き刑事からオーバーを頭から被され、パトカー内ではぐっすりと眠るなど紙上では「ヤクザスタイル」などと書かれていた。
逮捕まで
W崎は昭和41年6月からIさんの会社で運転助手の仕事をしていた。
事件後も何も様子が変わらずに勤務していたが、「非行歴がある少年はいないか?何か気づいた事はないか?」と刑事が訪ねて来た際に、Iさんが半分冗談で「お前はやるはずないよな?」とW崎に問いただしたが、その際に「絶対やりません」と言ったあとに目を逸らしたので不安がよぎり、刑事が引き上げたあとにIさんは「仕事もまじめだし、一人前になってほしいからお前を弟のように接してきた。もし過ちがあるなら男らしく罪を償え。いまならやり直しがきく 」と2時間かけて諭し、W崎が「少年院時代の友人の尾田に誘われて断れなかった」と打ち明けると、「どんな重い罪でも見守るから一緒に警察に行こう」と背中をさすり自首する決心がついた。
Iさんは親会社のSさんに連絡をし、SさんとW崎は12月10日の夕方6時頃に宇部署に出頭した。
その頃、逃走中の尾田には手配書が配られ指名手配されていた。
【西日本新聞昭和41年12月11日】
懲役13年の判決
分離公判になりW崎は昭和43年7月26日に福岡地裁で求刑15年に対して懲役13年判決。
「善悪の判断がつかない未成年で罪が重すぎる」と控訴
昭和44年6月18日に「犯行は重大で責任重い」と福岡高裁で一審判決が指示された。
【西日本新聞昭和43年12月24日夕】
【西日本新聞昭和44年6月18日夕】
悪行三昧の末に少年院で共犯者と出会い重大な犯罪に手を染める少年犯罪の典型例といえる事件だった
協力:折原臨也リサーチエージェンシー様