❼死刑→無期→恩赦→強盗K.K(17)
家郷に帰りたいから
昭和23年7月29日に民家に侵入して衣類など23点を奪い逮捕され身柄を滋賀刑務所拘置所にて勾留されていた少年K.K(17)は、同房になった朝鮮人徳久炳浩と日本人N(共に強盗事件で勾留中)らに、「初めて勾留された事による不安から家に帰りたい」と話し、もともと徳久とNは脱走を企てていたためにK.Kもこれに加わり同年8月1日に計画を実行した。
「房内の電球が切れた」
あらかじめ徳久が電球の配線を切断して、「電球が切れたから交換してほしい」と看守を呼び出し、扉を開けた看守部長Kと看守Oの二名の隙をついて廊下に飛び出し逃走、徳久は所持していた革のベルトを振り回して非常ベルを鳴らそうとした看守Oに攻撃。
K.Kは畳止めの角棒で、Nは膳の蓋で看守部長Kに殴りかかり昏倒させ拘置所建物外に逃げたが、追いかけて来た職員にその場で逮捕された。
角棒での殴打が致命傷になり看守部長Kは翌日に亡くなり、窃盗少年だったK.Kは殺人者となったのだった。
(この時代は看守殺し、脱獄が少なくなかった)
看守殺しに一審は死刑判決も少年法改正
殺人1、殺人未遂
昭和23年10月20日 大津地裁
徳久とK.Kに求刑通りの死刑判決
(徳久には詐欺罪で懲役2年の前科あり)
昭和24年5月24日 大阪高裁
徳久は同じく死刑判決
K.Kは同年の少年法改正により犯行時17歳だったために死刑を科す事が出来なくなり少年法第51条により無期懲役判決
Nは懲役18年の判決
同年の最高裁判決
10月20日 K.Kの上告棄却
12月22日 徳久の上告棄却
講和恩赦で減刑
昭和27年4月28日に徳久炳浩は講和恩赦により無期懲役になった。
また無期懲役で千葉刑務所に収監されていたK.Kも同じく講和恩赦により懲役15年に減刑されて、昭和34年に仮出所した。
死刑から生還しピストル強盗
K.Kは色々と珍しいケースになる。
17歳に死刑判決が下された例は戦後ほとんどない。
公判の途中で少年法が改正されて二審で無期懲役になったケースは確認されているのはK.Kのみ。単純殺人だったために恩赦の対象になったことも悪運が強いのか。
そんな偶然のタイミングがいくつも重なり死刑から生還した男は、更生して真人間にはなれなかったのだ。
(死刑判決から生還し出所後に再犯の少年は他に杉山優もいる)
出所後に横須賀で漁船員やポン引きなどをしてその日暮らしをしていたが、昭和36年7月21日に他二名と共謀し古物商のKさん宅に包丁と拳銃を持って押し入り、紐でしばり身動き出来なくして金品を奪ったが、Kさんの妻の抵抗にあい包丁と拳銃と靴の片方を現場に残して逃走し、翌月4日に逮捕された。
事件前に遺留品の拳銃を知人に見せびらかしていたことで情報提供から有力容疑者として浮かび、最初は否認していたが片方の靴が足の形にピタリと合い、観念して犯行を打ち明けた。
少年法とは?恩赦とは?と考えさせられるトホホな事件となった。
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参考元
【滋賀新聞昭和23年3月と10月】
【神奈川新聞昭和36年7月】
判決文/折原臨也リサーチエージェンシー