死刑事件が少ない地裁での少年死刑事件
少年事件を調査する過程で「そういえばこの地域の新聞は一度も閲覧したことないなぁ」とふと思ったのが今回の出発点。
山形地裁では戦後に確定死刑囚が一人もいないというのは知っていたが、他の地裁はどうだろうと興味を持ち、死刑事件が少ない地裁の少年死刑事件を深掘りしようと思い、漂泊旦那様の『各地裁別の最新死刑・無期懲役判決』と折原臨也様のサイトを参考にした。
求刑、判決のいずれかが死刑の事件を死刑事件とした。
上記の山形地裁では2007年5月23日に無期懲役判決が出た事件の求刑が死刑である。
他に旭川地裁、函館地裁も50年以上死刑事件がないが、北海道内では複数の少年死刑事件が確認されている。40年以上前の1980年3月28日に死刑判決があった大分地裁では2005年4月15日の無期懲役判決(求刑死刑)の被告人が犯行時19歳。
他に金沢地裁は1996年5月16日無期懲役判決(求刑死刑)が最後の死刑事件。日本返還(1972.5.15)後の沖縄の那覇地裁でも死刑事件は少なく1998年3月17日無期懲役判決(求刑死刑)が最後。
そんな中で確定者が70年以上出ておらず、死刑求刑も20年以上出ていない(2023年5月現在)松江地裁と福井地裁の少年死刑事件を今回は取り上げることにした。
福井地裁の2例
※2001年8月2日(求刑死刑、判決無期懲役)が最後
1例目
昭和22年12月8日に福井県遠敷郡遠敷村の古物商Nさん方に同月2日頃からNさん(74)の姿を見ない事を不審に思った近所の知人が訪れた際に床下から衣類を剥ぎ取られて亡くなっているのが発見された。
強盗の仕業とすぐに捜査が開始され、同村で窃盗歴のある不良少年O(18)が有力容疑者として浮上し三宅村にて同月15日に被害品のマントを所持していた事で逮捕された。犯行日は12月3日だった。
昭和23年3月2日に福井地裁で死刑が求刑され、同月12日に無期懲役の判決が言い渡された。
同年8月9日に名古屋高裁金沢支部でも無期懲役判決
同年12月24日最高裁上告棄却
本人の上告趣意では「はじめから殺すつもりはなく、窃盗目的で侵入したが気がつかれたため無意識で殺害していた」という内容。弁護人の趣意では犯行場所が「奥座敷」か「奥四畳半の間」かで相違があるとしたが、判決には影響しないと棄却された。
国会図書館では該当の福井新聞が欠号となっていて、朝日新聞福井版に小さく掲載されていた。
【朝日福井47.12.9、12.17】【集刑6】
【朝日福井48.3.4、3.14】
2例目
昭和27年3月18日朝6時ころ、福井市春日町のメガネ製造業のTさん方でボヤ騒ぎがあった。
近所の人の消化活動ですぐに消し止められたが、わずか畳二畳分の焼け跡からこの家の夫人が布団に包まれて黒焦げの状態で発見された。
夫婦円満、夫人の持病も回復していて現場の状況から他殺の可能性が高く、衣類がなくなっていることから強盗殺人の疑いで捜査が開始されたが、Tさん方ではこれまでも4回ボヤ騒ぎがあった。
現場に残された衣類から検出された血痕が被害者のものとは違う状況から内部に精通した人物を洗い、アリバイのない人物を聞き込み、すぐにメガネ工場で働く18歳のS下が有力容疑者として浮上。
血痕がAB型でS下と同じ、窃盗歴があり普段から素行が悪い、取り調べでも曖昧な供述で事件後に右手に包帯をしていた、ことから厳しく追求。
S下が金品目当ての犯行を認めて事件は解決した。
現場に戻り消火活動を手伝うなど大胆不敵な行動だったが、一度包丁で殺害し金品を奪ってから自転車で逃走し包丁を橋上から投げ捨て、再び現場に戻り遺体を包み放火していた。
昭和28年1月29日福井地裁で求刑死刑
同年2月4日無期懲役判決
精神鑑定の心神耗弱と犯行時が18歳2ヶ月の若年が死刑を回避した理由。
【福井52.3.18~21】【福井53.1.30、2.5】
松江地裁の例
※1983年3月22日の死刑判決(確定は無期懲役)が最後の死刑事件。
島根県といえば犯罪発生率の各種データでも常に治安がいい県として名を連ねて、少年の死刑事件も戦後は今回紹介する一例のみとなる。
昭和32年2月15日朝9時40分頃、島根県益田市の農業Sさん方にSさんの弟が訪ねた所、朝なのに戸も閉まりっぱなしでただならぬ雰囲気を感じ、中を見たところSさん夫婦が鈍器のようなもので頭を滅多打ちにされ死んでいるのを発見しすぐに益田署に届けた。
犯行日は14日頃と推測され、最近Sさんが牛を売ってまとまった金が手に入っていた事を知っている近い人間の仕業と目星をつけ、13日のパチンコ店での目撃情報を最後に姿をくらました甥の不良少年S市(19)を有力容疑者として手配した。現金約3万円と衣類と自転車が奪われていた。
4日後に逃走に使われた自転車が発見されたが、似た人物の目撃情報はどれも空振り、またS市の卒業証書の裏には遺書のような書き込みも見つかり自殺したか?と迷宮入りの様相を呈してきたが、4ヶ月後の6月22日に福岡県八幡市で「恐ろしくなった」と自首して事件は解決した。
県内を電車で移動し、再び盗んだ自転車で山口県まで行きその自転車を売った金で福岡まで電車で高飛び、工事現場に潜り込み働いていた。連行されて益田に戻った際は野次馬でごったがえした。
昭和32年12月12日松江地裁で無期懲役判決(求刑死刑)
検察の主張は犯行が残虐でパチンコに嵌まり金に困った身勝手な理由だったが、通常なら強盗殺人死者二名は少年でも死刑の可能性が高いが、母親が事件前に「真面目に一人立ちしてほしい」とあえて別々に暮らしていて、深夜になるとちゃんと寝れているか様子を見に来ては寝顔を見て安心して帰った話、父を早くに亡くし恵まれない家庭環境だった件、犯行時は精神が未熟だった事などあるが、一番は母の「自分の命を犠牲にしても我が子を助けてほしい」との訴えが裁判長の心を動かした事が大きかった。
裁判長「減刑を母に感謝しなさい」「イバラの道が続くが亡くなった夫婦の冥福を祈り正しく生きなさい」
【読売島根57.2.16~24、3.7】【読売島根57.6.23】
【朝日島根57.12.13】【読売島根57.12.13】
【山陰日日57.12.13夕】
今後もあまり知られていない少年事件を発信していきます。