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映画「JOKER」から読み取る現実のポリコレの欺瞞。

 ポリティカル・コレクトネス(以下ポリコレ)の根源に「共感」という概念がある。これまでは社会の中で切り捨てられてきた人々に対しその生きづらさに共感し寄り添い、彼らが(ひいては自身らが)生きやすくするよう社会を変革することがその目的だ。

 その意味では、ポリコレはとても公共的だ。ところが、ポリコレではどうしても救えない人々がいる。共感性の低い人間だ。

 映画「JOKER」の主人公アーサーは、自身が思いもしない場面で笑ってしまうという精神障害を抱えていた。彼はそのことで、人々から理解をされず迫害され、ついにはダークヒーローと化す(ところが、オチはもっととんでもないので、未見の方は是非観て欲しい)。
 私たちは、アーサーに共感し、では実社会ではどうすべきなのか、彼がダークヒーローになる前に何をすれば良かったのか、などと考えたが、ひとつ忘れてはならないのは、彼はその存在を作中で説明されたことで私たちに理解できる存在となったのであって、ポンと私たちの目の前に出現した時点ではただの「共感性の低いヤツ」としか私たちは認識できまい。

 蛭子能収氏は、葬式に参列すると、どうしても笑ってしまうという。
 氏自身もそのことは大変に悪いことだと判っているし、実際に葬式で笑い叱られたことも何度かあるので葬式には極力参列しないそうなのだが、元々世間から軽んじられている傾向のある彼はそのことでもさらに軽視されている。誰も、「JOKER」のアーサーのように彼の内心の苦悩などを慮る気配はない。

 多様性という考えに従えば、彼が葬式に参列できるよう、私たちは彼の"笑い"を理解し葬儀中に彼が突然笑い出すことも受け入れなければならないだろうが、誰一人としてそんなことは言わない。
 皆が悲しむべき葬式の最中に笑い出すような「共感性の低いヤツ」は、ポリコレ的には真逆の敵、煮沸して浄化すべき存在に等しいからだ。

 「JOKER」のアーサーには共感できる私たちが、蛭子能収氏には共感できない。なぜか。簡単だ、アーサーのような"説明"を、誰からも受けていないからだ。そして、共感性の低い人間はそもそも社会から疎まれるし、その背後の物語を理解しようなどとは誰も思わない。

 そもそもが「共感」を基調とするポリコレは、共感しない者、彼らの意見に同調しない者に対しては冷たく厳しい。「○○はこうだ」という"正しい在り方"があり、それに反する者はつまり、朝敵だ。
 葬式では、みな悲しむべきであり、最中に笑うのは良くない。だが蛭子氏のように、そしてまた僕のように、葬式の最中に笑いを覚える人間というのは少数ながら存在する。そしてそのことが、自身にとっては大変につらいのだが誰もそれを理解しようなどとは思わない。

 えっ……理解した?
 ふざけたことを。今こうやって、本人は苦しいと説明されたからようやっと理解できただけだろうが。

 例えば、これが僕や蛭子氏でなく、新垣結衣あたりが「葬式で笑ってしまうのがつらい」と言えば、大した説明がなくともみな理解を示そうとするだろう。僕や蛭子氏には共感できないが、新垣結衣には共感できるからだ。
 「かわいそうランキング」は真実であり、それ自体がポリティカル・コレクトネスの限界を示している。

 もうひとつ、重要な指摘だ。僕は基本、文章の上では饒舌なので口八丁の説明ができるが、共感性の低い人間は基本的に、自身の説明ができない。

 例えば、フェミニズムに対するアンチフェミニズムについてポリコレ側からの反応は、よくDEVILと見做しEXORCISMの対象にする。彼らが抱える生きづらさについては理解しようともしないし、その上彼らは説明ができない。
 相模原障害者施設殺傷事件の加害者である植松聖は、声をかけ意思疎通できないと見做した要介護者らを刺し殺したことを思い浮かべよう。私たちは、理解できない存在を理解する努力が必要のはずだ。しかし実際は、存在からの説明がなければ理解ができない。

 そして、共感性の低い人間(常にそうでなくとも、ある場面では共感を示さない人間)は、共感しない理由の説明がまずできない。共感を求める必要を覚えていないのなら、言葉は必要ないからだ。
 ポリティカル・コレクトネスの本来では、彼らにも共感をしその生きづらさを解消するべきでは?と思うならメビウスの輪に囚われる。当人の言葉がないままに、当事者以外が彼らの「生きづらさ」を慮ればほぼ間違いなく、見当違いの方向へ向かう。例えば、トランスジェンダーとトイレの利用者マークの問題時に、当事者らを抜きにして考えられた「トランスジェンダーマーク」が当事者らにとっては「ダビデの星」でしかなかったように。

 ポリティカル・コレクトネスの本質が「共感」である限り、私たちはその社会の隙間に共感のできないJOKERを産み続ける。それぞれが様々な生きづらさを抱えるJOKERらは、しかしポリコレという"公共"からは見放された存在であり続ける。彼らが理解され救済されるには彼ら自身が言葉を発するしかないのだが、そもそも彼らは言葉を有さない。

 映画「JOKER」のアーサーは私たちに理解されたのに、現実のJOKERらは畳のスキマのダニのように忌み嫌われる存在であり続け、そして私たちは虚構のアーサーを理解したことで「社会が少し良くなった」気になっているのだ。これが、欺瞞でなくて何なのか。

 それが、米国でトランプ大統領を誕生させ、やがて大統領によるクーデーター未遂というとんでもない事態にまで及んだと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。

 共感ではなく、敵対者をも否定せず関係を続ける意思こそが今後のポリティカル・コレクトネスの採るべき指針であり、そうなれないならばポリティカル・コレクトネスはきっと、公共に浴さないだろう。

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