トランス女性と利用施設への雑感。
少し、言葉遣いが荒いエントリになります。
トランスジェンダーについて、特にトランス女性について僕たちがまず考えなくてはならないのは、女性がちんこに嫌悪感を覚えることを度々表明しているように、トランス女性も精神は女性なのだから同様に、自分のも含めたちんこという存在に嫌悪感を覚えて不思議ではないという点です。
しかし、そこから実際にちんこを切り落とすまでの間に、相当の葛藤があることも容易に想像がつきます。腫瘍やデキモノのように後から生えてきたものとは違い、元から自身の肉体についてたパーツなのですから、嫌だからといってナイフでエイヤッと切り落とすわけにはいかない。
また、自身のちんこが嫌だという自身の気持ちこそが間違っているのではないか、いつかちんこを好きになれるのではないか。そういう悩みを抱え続けることもあるでしょう。
トランスではない僕でも、自分の顔のこのパーツが嫌だという気持ちがあるし、だからといって交換や改造に至るのはどうか、そこまでするくらいならソレも含めて自身を愛する努力をしよう、そういう心理を抱いているのです。
その状況に対し「トランスと言いながらちんこを切り落としてないなら男性だ」という断罪は、そういう人々にとってどれほどのスティグマとなるか。僕たちは、その心情が理解できる程度には成熟した社会を築き上げているはずだと信仰しています。
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マイノリティのために、マジョリティが我慢しなければならない。ポリティカル・コレクトネス、すなわち"政治的ただしさ"は、この欺瞞を疑うことすら人々に許そうとしません。
なぜ欺瞞なのかといえば、マジョリティとマイノリティはあくまで相対的な関係に過ぎないので、ある観点からはマイノリティという立場の人も、別の観点からはマジョリティとなる。
つまり"政治的ただしさ"を無謬の規律として推し進めれば、いずれ世界最弱の存在のため全世界の人々が我慢を強いられることになりますが、その構造下では誰もが「最弱」になりたがります。
いかに自分が弱い存在であるかを互いに競い合う行為が政治的にただしいとされる世界に、僕は本能的に吐き気を覚えますが皆さんはどうでしょうか。
ところで、トランス女性というマイノリティにとって、シス女性は圧倒的なマジョリティです。政治的にただしいことを実践するなら、シス女性はちんこ付きトランス女性が女湯や女性トイレに入ってくることを拒んではならないですよね。
ポリティカル・コレクトネスの欺瞞です。
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スポーツの世界でも、トランス女性が女性選手の記録を上回る成績を出し続けていることが問題になっていますね。僕はこれを、ポリティカル・コレクトネスのハッキングだと考えています。
なぜ、スポーツの記録に男女別を設けたのか。男性と女性では、肉体的特性がおおむね異なるからですよね。ところがポリティカル・コレクトネスは女性を男性に対してのマイノリティ(社会内部のヒエラルキー的に)と定義し、それを疑うことを禁じた。その定義に対するハッキング行為が件の現象として現れたし、これからも現象は増え続けるかもしれません。
また、トランス女性が女性として競技に参加する事を禁じた、というニュースも耳にしましたが、個人的には苦笑を禁じ得ません。ハナから当たり前の話だったんですから。欺瞞への疑念を圧殺し続けてきたから発生しただけの問題ですよね。
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問題はシンプルです。
ちんこ付きトランス女性が女湯や女性トイレを使うことを、シス女性は我慢すべきなのか。
そして、解決方法もシンプルです。
ちんこ付きトランス女性は、それらを利用できないことを我慢すべき。
いま僕は、言論の暴力を行使しました。
ちんこ付きトランス女性も、言論を暴力として行使しましょう。
僕みたいな無責任な赤の他人に、勝手にその姿を想像させてはならない。
言葉で僕を殴り倒し、シス女性を殴り倒し、世界を殴り倒してください。