Twitterとクレショフ効果。
Twitterって、"被害者"がより大きな共感を集める道具として大層便利なのだが、同時に"加害者"の育成場としても大変に優れた機能を有していることは皆さん、既にご承知のことだと思う。
なぜなのか、について、ひとつ仮説を考えてみた。
Twitterのように、短文投稿を繰り返せるシステムは、その視聴者にクレショフ効果を与える、というものだ。
クレショフ効果とは、映像を断片的に並べて見せることで、それを見た人が自覚的あるいは無自覚の内に意味を見出す効果のことだが、重要なのは、個々の断片映像には全く意味がない(意味を見出さないよう、注意深く選定した映像)にも関わらず、それらを連ねて見せられることで人々はそこに意味を見出してしまう場合が多い、ということだ。
Twitterはまさに、この断片の情報が飛び交っている世界だ。
もちろん、先に挙げた例と異なり、ツイート自体には様々な意味が含有されている。あるいは、ツイートを連ねてひとつの物語を語る事もできる。しかし、人々はその中から一部を切り抜き拡散することも可能で、そうなったツイートは物語から切り離された、ただの断片と化す。
先に挙げたクレショフ効果を、初めて実証した実験で用いられた映像も、ある物語の断片だった。
人は、どのように無意味な情報の数々であれど、その間を自身の想いで埋め、物語として連ねることができる能力がある。そしてTwitterには、あなたの想いが、解釈が、如何に実際と異なっていようとそれを訂正する機能はない。
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僕たちは、ツイッターランドでいつもいつも言い争っているわけではない。その多くは、「おはよう」「こんにちわ」の簡単な挨拶であり、または「●●が好き」「●●が嫌い」等のお気持ちの表明だ。
もう少し注意深い人であれば、読む人に誤解を与えないよう、ひとつのツイート内で表現する内容をできるだけシンプルにするよう心掛けているだろう。
ところが、クレショフ効果を通してこれらのツイートを見れば、自身が好きな物語を紡ぎ放題なのだ。逆だ、ツイートは、可能な限りフクザツな内容を呟くべきなのだ。
ある考えを述べるにあたり、極限まで言葉を削り圧縮する。それを、ひとつのツイート内にギュウギュウに埋め込む。こうすることで、読む者が自身の発言の断片を勝手に繋ぎ合わせて、思うが儘の物語を紡ぐことを防げる。
故人だが、山本夏彦というコラムニストがいた。
彼の文体の特徴は行間に言葉を詰め込むというもので、相反する言葉を並べてみせるのも得意だった。そうすることで、文章量を遥かに超える情報を、情景を読者の中に広げるタイプだった。
18年前に没したが、もし彼が今でも存命であれば、Twitterに興味を示したかもしれない。「バナナを手に途方に暮れる」といった風の、ごく短い、しかし情報量がギュウギュウに詰まったツイートをぽつりぽつりと呟いていたかもしれない。
Twitterを、挨拶お気持ち表明の場だと捉える限り、僕たちはいつまでも、そこから自分が見たい物語しか見ることができない。そうではなく、400字詰め原稿用紙の半分以下の紙面に、コラムを記載するつもりで書こう。書けないなら書かずにおこう。
一個人からの、ツイッターランドの改革の提案だ。