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老子「無事」と「亡事」

初出:2010/03/01
改訂:2021/04/17

「無事」と「亡事」

郭店楚簡本老子甲組には、「無」は出ないなと思っていましたが、写真をよく見てみると、「我無事而民自富」の部分にひとつだけありました。他は全部「亡」なのに、なぜここだけ「無」なのか、謎です。

「無」と「亡」が同じものだと、辞典には書いてありますが、書き分けている以上、これは同じものではありませんね。となると、通行本のように、「亡」を「無」にしてしまって、「無為」とするのは、問題がありそうです。あくまでも「亡為」でなければならないのかもしれない。(楚簡では、「亡為」です)

「事亡事」「以亡事取天下」というのがあるから、「我無事而民自富」じゃなくて、「我亡事而民自富」でも良さそうです。何もわざわざ画数の多い字を書くまでもないと思います、全く同じ意味なら。そう思いませんか。一箇所だけ、「無」があるのはかなり問題となります。しかも、「以亡事取天下」と「我無事而民自富」が書かれている場所は、話のつながりから見て、かなり近いのです。書き分けているとしか思えません。「亡」はあくまでも、「亡」のようです。それを頭において、郭店本は読まないと、痛い目に遭います、少なくとも甲組は。

王弼や河上公は老子の原作者ではない。新しいもので、古いものを直すのは、ナンセンス。私は、反対です。「亡為は亡為であって、無為ではない」と思います。

杜胡三蔵の考え、読み

「無」は、「有」に対して、ただ「無い」といっているだけで、「有る」か「無い」かしか問題にしていない。

「亡」は、存在しているもの(物、者)が、「隠れる、無くなる、いなくなる」という意味(存在の消滅、有から無への変化、その結果として、「無い」)。単に「有る」か「無い」かということを問題にはしていない。

字が示している内容に、明確な概念上の差異があるのです。

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