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漢文、訓点句読点が邪魔をする
注)2021/04/21 20:43 基本的に再録、訂正箇所があるが、11年前と全く考えが変わっていないので、そのまま、転載した。
訓点句読点が邪魔をする
漢文は現代語訳すべきではないという意見がありますが、どう思いますか。解説で理解して、書き下し文で、味わうのが正しい方法なのですか。それなら、私は完全に、間違ったことを生涯かけてやろうとしていたことになります。
下手な講釈(能書きを垂れると俗に言う)よりも、改めて、現状の言葉、日本人なので、日本語で(訓読は、まともな日本語ではない)明快に表現されていたほうがわかりやすいと思います。それが、たとえ、80点でしかなかったとしても、そのほうが人々には利益があると思います。
訓読は便法であって、手段の単なる一部、目的ではありません。しかも、あれは、まともな日本語ではありません。日本の正当な古文でもありません。やって悪くはないですが、それが最終的な私の目的にはなりません。訓点がついているものは、邪魔なので、イライラします。辞典の用例くらいの部分的なものなら、長くないので、見苦しさは我慢できますが、原文の全部につけてあるやつは、とても、イライラするから、私は、我慢できません。
真意を解明するための完全なる妨げになっても、助けにはなりません。それは、訓点を付けた人の解釈であって、私の読みと同じでない可能性があります。訓点や訓読に完璧な正解などありようはずもなく、結構いろいろあります(いろいろ解釈できる余地・可能性がある)。一つに定まっているわけではありません。○○流など、流派まで存在します。今考えてみると、ナンセンスですよね。
自分用に原文を作るとき、最初のものは、完全なる漢字の羅列です。句読点も全く付けません。これも付けられていると、そこで切れていると自分で考える前に、誰かの考えに無批判に従うことになるからです。どこに句の切れ目があるか、虚心坦懐で、検討する必要があります。意外と違う可能性を発見することがあります。それが間違っていないか、考えるのも、楽しいものです。漢文籍のデータベースで用例を探したり、中国の字典サイトで引きまくったりすると、自分の解釈が案外ありかもとか、やはりこれは、あり得ず、邪道だったなとか、分かります。