一知半解・歔欷不定

最近は自分自身の無力さに気づかされることが多い。
先日書いた仕事でトライアル端末を管理する業務で、まったく管理が行き届いておらず、何度も手間をかけ、挙句の果てには周りに迷惑をかけてしまった。
迷惑をかけている事に申し訳なさを感じると同時に、自分自身の無力さを痛いほど実感した。そしてそこから目を背けていた自分がいたのだ。
思い返せば、大学受験やこれまでの人生希望した結果の8割は実現してきた。生半可な努力でどうにかなってきた自分がいたのである。
努力の基準は人それぞれであるが、真の意味で努力をしたといえるのかは疑問点が付く。
勉強において大切なことは復習であるが、復習を避けていた自分がいることも否定しがたい。
軽慮浅謀に物事を進めていた自分に愕然とする。情報の整理が全くできておらず、できた気になって進めていたのである。

その他に感じた事は自分はパワーポイントの作成が非常に不得手であるということだ。情報を思いつくままに載せ、最終的にすべてを手直しされる始末。
自己を客観的に分析すると、恐らく自分が得意な領域は情報と情報を繋げて新しいアイディアを出すという部分だと思う。
ただ、そのためには材料が必要で今回でいえば他人の作ったパワーポイントの例をストックしておくことだと思う。
心のどこかでは前々からパワーポイントのストックが役に立つとは気づいていたが、面倒臭さが勝り手を付けてこなかった。
どこか自分で0から斬新なアイディアを生み出したいと羨望していたのだろう。
では斬新なアイディアを生み出すにはどうすればよいかが因数分解できていなかった。限りない天才でない限り、過去の前例を基に抜け漏れを発見し、それをアイディアとして移す。
まずは人をまねてみる。守破離でいえば”守”の段階だろう。
いきなり”離”にいこうとしていたから失敗していたのだ。
分からないことはまずは頭の中で考え、良いアイディアが生まれなければ前例を確認し、そのうえで真似るなり独自性を追加していけばよいのだ。

また本当は分けるべきではあるが、考えがどこかに飛んで行ってしまいそうなので記しておく。
最近YouTubeで見た石原慎太郎さんの国会での討論に大きく啓発された。
その美しい日本語と確かな内容に裏付けられた圧倒的な知識量と自信には圧倒されたのだ。
どんなに富を持ち、何一つ不自由ない生活を送れたとしても、現状維持だけはもっとも許すことはできない。
考えることは人間に生まれた特権であり、日々進歩を感じることに快楽を覚える。美しい文章を書けるようになることが当面の目標になるだろう。
AIではなく、自分で考え、自己を発現するプロセス、結果にこそ自己が現れると思う。我思う故に我ありとは何とも言いえた表現であると感じる。

いいなと思ったら応援しよう!