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短編小説『桜と彼女』
「めっちゃ綺麗……」
つい先日、大学に通うために上京したばかりの私は思わず足を止めて感嘆の声を零した。視線の先には、まさに満開で見頃の立派な桜の木があった。柔らかな風に吹かれてゆらゆらと花弁が吹雪のように舞った。
あと数日で始まる大学生活のため、学校までの道順を確認しようと往復した復路でのこと。引っ越したばかりのアパート付近も探索してみようと行きとは違う道を通って帰っている途中にこの桜を見つけたのだった。
桜の木は灰色の瓦が乗った真っ白な塀に囲まれた敷地の中にあった。周囲にぐるりと延びている塀は彼方にまであるようで私が通っていた高校のグラウンドくらいの面積はありそうだ。近くには塀の一部に玄関であろう大きな木の門があり、武家屋敷を思わせる造りの家だった。安直に言えばお金持ちが住んでいそうな家だった。
都内とはいえ二十三区の端っこで都会の喧騒からは少し離れた住宅街の中に泰然自若と佇むこの日本家屋と桜の木と、大学付近の高いビルが並んで多くの人々が行き交う騒々しい街。そのあまりのコントラストに眩暈がするようだった。
平日のお昼前という中途半端な時間のせいか周囲に人影はほとんどない。それを良いことに呆けたように桜をしばし観賞していると門の中から何やらカタンと物音が聞こえてきた。
どうやら閂が開けられた音だったらしく、ゆっくりと門の片側が開いた。
「……ん?」
門から顔を出した女性とばっちり視線が合う。
「うちに何か用事かな?」
こてりと可愛らしく首をかしげて鈴の音のような玲瓏な声で尋ねてきた彼女に私は目を奪われ息を呑んだ。
年齢は三十歳前後だろうか。結い上げられた艶やかなカラスの濡れ羽色の髪。雪のような白磁の肌。整った顔立ちの瞳は澄み渡った空のような薄い青色。しかし、カラーコンタクトではないように見える。そして身を包んでいるのは縞鈴蘭柄の薄い緑の着物に、濃い緑色の帯と花くす玉柄の羽織というまさにこの屋敷にぴったりの服装だった。
と、すぐに返事をしない私を訝しむような表情に変わりそうだったので慌てて「すみません」と頭を下げる。
「私、最近この辺りに引っ越して来たのでちょっと探索しようかなって探索をしてたら、この桜を見つけて綺麗だったのでつい」
「そっか、ありがと」
柔らかな笑みを浮かべた彼女はちらと桜を一瞥してから、再びこちらへ視線を戻す。
「ほんと綺麗だよね」
「はい」
「……良かったら中に入って見ていく?」
「え?」
突然の申し出に思わず聞き返してしまった。
「中から見たほうがもっと綺麗だから。庭とか池とか、この桜のために造ったんだ。あと鯉もいるよ?」
「いいんですか?」
「もちろん」
とんとん拍子に話が進んでいってしまう。
もしも私が悪い人だったら、なんて考えないのだろうか?
それとも、このくらい大きなお屋敷に住んでいる人にとっては今日であったばかりの人に自分の家の庭を見せるくらいは当たり前の行動なのだろうか。住んでいる家と言い、着ている着物と言い、私とは文字通り別世界の住人のようだった。
「さ、どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
促されるがまま私は彼女のあとについて行って、立派な木製の門をくぐる。
そして、塀の内側も別世界だった。
大きな平屋建ての日本家屋が奥に見え、そこに至るまでの道には綺麗に石畳が敷き詰められている。道の左右には京都のお寺で見かけるような日本庭園が広がっていた。松や柳、ツツジなどをはじめとした植物に、敷地内を流れている川やそれに架けられた石橋、小さな滝に趣のある苔むした岩などこれが家の敷地内だとは思えない景色だった。
「こっちだよ」
右へ曲がり、庭園を進んでいくとすぐに先ほどの桜の木が見つかった。
「わ……」
「どうかな?」
「す、すごいです。外から見るよりもずっと」
桜の木を中心に邪魔をしないよう植物が植えられ、道が作られ、石灯篭などが設置され、川が穏やかに流れている。女性が言った通り、桜の木を活かすためだけに設計された場所だった。桜の木だけがライトアップされているような錯覚に陥るようだった。
どこからか聞こえてくる鶯の鳴き声や川のせせらぎ、そよぐ風の音を背景音楽代わりにしばし庭園を――桜を鑑賞する。
「桜、好きなの?」
「はい」
「腕時計も桜色だもんね」
彼女の視線は私の右手の手首に向けられていた。
そこには高校卒業のお祝いとして両親からもらったピンクゴールドの腕時計がある。お気に入りの品だった。
「私、名前が桜なんです。飯田桜。それだけってわけじゃないですけど、それも桜を好きな理由の一つです」
「へぇ、桜ちゃん」
少しだけ驚いたように彼女は言って、すぐに「あ」と何やらを思いついたような声を零した。
「だったら、もし私と結婚したらもっと好きになるかもしれないね」
「どういうことです?」
「うち、苗字が佐倉だから」
「え!」
奇遇も奇遇な事実に驚く私の反応を見て、佐倉さんはにっと子供が悪戯をしたような可愛らしい笑みを浮かべた。
「佐倉桜ちゃんになっちゃうね。ま、うちは桜は桜でも漢字が違うんだけど」
最後は少しだけ肩を竦めながら佐倉さんは言った。
佐倉桜。
うーん、私の完成形なのかもしれない。
もちろん、私がこの佐倉さんと結婚することなんてあり得ないけど。隣に立っている佐倉さんの左手の薬指に光っているものを見て、そんなことを思う。
「ところで桜ちゃんはなんで桜がこんなに綺麗なのか知ってる?」
「いえ。何か理由があるんですか?」
「桜の木の下にはね、死体が埋まっているんだよ?」
「え! いやいや、まさかそんな」
思わず桜の木の根元を注視する。しかし、当然のことながら死体は確認できなかった。
「冗談ですよね?」
「どうかな」
曖昧に答えて佐倉さんは桜の木を見つめる。その青色の瞳は桜の景色のなかに何か別のものを見ているようにも映った。
「私の好きな人たちもね、この桜が大好きなの。今はちょっと遠くに行っちゃてるんだけど」
「それって……」
この先の言葉を口にするのは憚られて私は口を噤んだ。
さすがに死体が埋まっているというのは比喩としても、佐倉家の桜が綺麗なのはそういった理由があるのだろうか。その人たちのために、佐倉さんはこの庭園を造ったのかもしれない。
「…………」
途端に目の前の景色が儚く切ないものに見えてきた。
同時に疑問が浮かんでくる。
そんなに大切な桜の庭園をどうして初めて会った私に見せてくれたのだろうか。寂しさや悲しさを紛らせるために気まぐれで誘ってくれたのだろうか。
真っすぐに桜を見つめている佐倉さんに私は声をかけることができなかった。花弁を散らす春風が彼女の髪も揺らす。瞬きをしたら、次の瞬間には彼女は消えていなくなってしまうような気がした。と。
「ゆずママー!」
静寂を終わらせる元気の良い高い声が聞こえたかと思うと、家の方からパタパタと小さな女の子が駆け寄ってきた。軒下から「転ばないように気を付けなさいね!」と先ほどまで女の子と一緒にいたらしい桜色のスプリングコートを着た明るい茶髪の女性の声も聞こえてくる。だが、女の子には聞こえていないようで、走っているそのままの勢いで佐倉さんの足にぎゅっと抱き着いた。その瞳は佐倉さんと同じ青色をしていた。
「百。おかえり」
「ただいまぁ」
女の子は桜の花に負けず劣らずの明るい笑顔を満開に咲かせる。服装こそ和服ではないが顔立ちや髪と目の色、それから声の質が彼女に似ていた。十中八九、佐倉さんの娘さんだろう。優しく髪を撫でてあげる佐倉さんと、それに目を細めて喜んでいる娘さん。軒下にいた女性も「もう、百ったら」と苦笑しながら二人と合流した。
仲睦まじい様子に思わず頬が緩みかける。が、一点だけ引っかかる。
「え?」
「ん? 桜ちゃん、どうかした?」
「いや、あの。佐倉さんが好きな方は遠くに行ったと言っていたので……」
「うん?」
「なので、私はてっきりその人たちはもう」
「あぁ、そういうこと」
合点がいったように佐倉さんがくすりと笑った。
「うん。私は仕事の都合で行けなかったけど、ちょっと旅行に行ってたんだ」
「……なるほど」
桜の木の下には死体が埋まっている、かもしれない。それはわからない。だが、少なくとも佐倉家の桜の木の下には死体は埋まっていない。代わりに埋まっているのは佐倉さんと奥さんと娘さん、三人のかけがえのないものだろう。
おしまい
『桜と彼女』
著者:はるはる
今回の三題噺のお題
・スマートウォッチ(腕時計)
・桜
・新生活
次回の更新は陸離なぎさんの『けふ九重ににほひぬるかな』です。
3月30日に公開予定です。
前回(第1弾)の雨隠日鳥『荷解きは台風に邪魔されて』はこちら↓