心配という名の攻撃
ここ最近、母がよく口にする言葉
「もういい歳なんだから」
おっしゃる通り、私は世間的にいうと「いい歳」である。40歳が目前に迫っているにもかかわらず、未だ未婚で出産経験もない。しかも定職についてもいない。一般的感覚でいうと詰んでいる(笑)
きっと人生のテストなるものがあったら、私は赤点どころかマイナスだろう。
高校の頃、リアルに数学のテストで0点をとったことがある。それも2つで(数IIと数Ⅲで)。もちろん、教師に呼び出されたが真剣にこう言った記憶がある。
「数IIと数Ⅲって私の人生に必要ある?」
ギャフンである。女子高生強し(笑)屁理屈もいいところ。いや、そうじゃないだろと、今ならわかる。が、当時の私は言い切ったのである。
確かに今の私の姿は褒められたものではないかもしれない。「普通」に考えたら、結婚して出産して、育児をして子供が巣立って、第二の人生を迎えて…という節目を迎えていくことが正しいのかもしれない。
けれども、私の人生には結婚や出産という節目は存在しなかった。ただそれだけなのである。
誰かとともに生きていくために結婚する。その誰かとの共同で育児を行う。この巣立ちの達成感を感じる。
上記は私が私の人生において必要な節目にはならなかっただけなのである。
私は常に私でありたい。
私以外の人間の責任を背負いたくない。
私の思いを最優先に生きたい。
私がしたいことをし、したくないことはしない。
私が好きなもので囲まれ、好きではないものは排除したい。
ただただ我儘なだけなのであるが。
きっと今、彼を選択している理由もここにあるのだろう。
私の思いを最優先に考えられる人間、それが彼なのだ。
ありがたいことである。と感じるとともに、そんな彼に見染められた私、やはり素晴らしいと自画自賛している。
となると、やはり私は自分が大好きなのである。
もし今、死の瞬間が訪れたとしても、私は満足である。心残りがないくらい、したいことをしたいように生きている。
私は私のままに生きたいのである。常に笑っていたいのだ。
「もういい歳なんだから」
もちろん、冒頭の母の言葉も、心配から来ていることは重々承知している。むしろ、心配かけてすまない。
けれども気づいて欲しい。
その言葉を向けられることによって、私は私を否定されていると感じるのだ。それも、私を産んでくれた人から。
「私を産んで後悔しているの?」「育て方を間違ったと感じているの?」「今の私はお母さんが思っている私じゃないの?」と、
子どもじみた不安を抱えてしまうのだ。
もう40歳を迎えようとしているのに、小さな子どものように布団の中で丸まって泣いてしまうのだ。
だから信じて欲しい。
あなたの娘は今、心底幸せです。
結婚もしていないし、子どもだってもちろんいない。いい歳してオフショルダーのワンピースやショートパンツを身につけ、仕事は1年続きません。
それでも、毎日笑ってます。
幸せだなぁと感じています。
それはお母さんがたくさんの愛情をくれたから。
いまだにたくさんの愛情を注いてくれているから。
だからお願いです。
心配しないでください。
私は、私に責任を持って生きています。
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