見出し画像

混じり合うことと 手を繋ぐこと

昨日寝た時間 :24時半
今日起きた時間: 7時

昨日は朝5時半に起きた。
毎週金曜日は長男を空手に連れていくので、時差出勤で早出をする。
でも、結局長男は雨だし疲れているから、と空手には行かなかった。
僕の早出は空しく意味を無くした。でも僕はそこで、「いや、行けよ空手。疲れていてもさ。」と言わなかった。長男にも選択権はあるし、長男には自分の意見は尊重されるのだ、と分かっていて欲しかった。

朝、職場の最寄り駅の改札を出ると、雨が降っていた。
傘を差して、暫く歩いていると、いきなり傘がグイっと外側に押される。
知り合いが後ろから追いかけてきたのか、と一瞬思ったが、そうではなく、
知らない人が僕の傘を押して自分の体が通れるスペースを作ったようだ
(僕の左横にはまた別の人が歩いてて、その人と僕の間を歩くために、僕の傘を押して、スペースを作ったようだ)。

いきなり傘を押され、驚いた僕の横を、抜き去る人が通る。
僕は驚き、そしてちょっと憤慨し、何よりどんな人間がそんな失礼な
ことをするのか、顔を見たいと衝動的な欲求に駆られ、後ろから少し
早歩きをする。その人間は恐らく50歳前後の男性、黒いキャップに黒いマスク、黒いピアスを着けていた。そもそも、僕は普通に歩いていたし、その男も決して早いスピードで僕の横を抜き去ったわけではない。

これは、僕の憶測とレッテルと先入観だが、この男は虚勢で傘を押したのだ。仮に僕が背が低くなければ、そんなことはしなかったのではないかな、と思う。僕はその男と並行して歩いた。その男を具に観察していた僕の視線に気づいたみたいで、こちらを見てきた。傘を押しのけて抜き去るぐらいならば、「何みてるんだよ」とでもいえばいいのに、気味悪そうにこちらを見て、直ぐそばにあったコンビニに入っていった。

ナルシストは別にいい。自分で承認するのだから。
エゴイストは嫌だけど、仕方ないと思う。自分の意見が正しいと思い込むときもあるし、立場がそうさせてしまうこともある。
しかし、自分のナルシシズムを外部からの承認でも満たすために行動するエゴイストは許せない。そう思うことがあった。立場が上がるとそういう人が増える。自己憐憫をして、「そうじゃないですよ」と慰めをまったり、自分の悲劇(「親の死に目に会えなかった」とか)を吹聴し、「辛かったですね」という同調を得られないと憤慨したりする人たち。

「声をかける」を読んで以降、僕はとても落ち込んでいた。自分が本当に人と接することができてきたのか、ただの表象だけで人と交わり、勝手に解釈して自分の欲望を満たしただけなのではないか、とか、そもそも僕は妻のことを好きだと思って結婚したし、それは今でもそうなんだけど、その感情は好きというよりも寂しさからの塗り替えなのではないか、とか、ぐちゃぐちゃに考えていた。このまま考え続けたら、恐らく簡単に狂っていきそうな予兆を感じていた。自分のこれまでの人生が全く違ったものに見えてきてしまった。

「ちょっと思い出しただけ」を見る直前に立ち寄ったブックオフで、「声をかける」を買った。「ちょっと思い出しただけ」は、僕のなかでとても大きな波を作った。言葉にすることは少し難しいけど、思い出し続けることと、恋愛の揺らめきについてと、時間軸を超越する最高の一瞬についてで、それは僕の過去にも確かにあったことなのだ、というような感じのことだ。

その後、「声をかける」を読んで、僕は分からなくなってしまった。自分が恋だったり、愛だったり思ってきたものが、ただの表象だけに関しての自分の感情だったのではないか。もしくは、自分のなかだけで湧いていただけのことで、相手との交感とはなっていなかったのではないか、ということだ。

昨日から僕は、「ちょっと思い出しただけ」のノベライズ本を読み始めた。今日の朝も起きたから読み、そして朝の8時に読み終えた。隣では長男がチャレンジタッチをやっていた。

映画を見ているとき、僕にはなぜ主人公の男女が別れたのか、その理由が明確に分からなかった。ダンサーの主人公の男は突如怪我をし、ダンサー生命が絶たれてしまった。突然、幕が下りた。主人公の男は突然の出来事にどうしていいのか分からず、戸惑い、恋人である女からの連絡も出られなかった。そんな日々が2週間続き、最後会話を試みたものの、やはり噛み合わず、最後には分かれる。その最後の会話群でも、明確にお互いがお互いを好きで、大切に思っていることは伝わる。それでも、別れる、という選択をした。それは僕にはなぜなのか、明確に分からなかった。もっと、ちゃんと話し合うことはできるし、後日また話し合えば理解は促進される余地が十分にありそうだと見ているときに感じだからだ。

しかし、ノベライズで読むと、やはり別れは明確に訪れたことが分かる。別れの理由は、お互いが同じように信じていたり思っていたと思っていたものが、そうではなかった、と信じてしまったことだ。混じり合っていると信じていたものが、混じっていなかった、と信じてしまった。それが2人が、と言うよりも女が別れを選択した理由だ。

一方で女は、男と別れたのち、偶然に出会った男と一夜をともにし、そして結婚して子供を産んでいる。偶然に出会ったその男に対して、女は明確に「シラけて」いるんだけど、でも酒の勢いがあって夜を共にしたスタートとなったものの、その後一緒に生きている。これはきっと、「混じり合うわけではない」と思った(簡単に言えば「こいつはないな」という感覚)ところからスタートしたので、「混じり合う」ことは期待しなかった。一対の関係性を混じり合わせることが目的ではない場合には、手を繋ぐことが目的となる。

混じり合うことが目的の場合には、許容や一致、自己投影の量がとても多い。自分と同一視する/させるのだがら、当然だ。でも、手を繋ぐのであれば、違う。違う個体同士でのスタートであり、違いが前提になる。だから、相手にも自分にも自立した感情を持つことができる。

僕は何故だか分からないが、ずっと寂しい。
配偶者も、子供も3人もいるけど寂しい。
高校生くらいから、ずっと寂しい。寂しさが続き続けている。

僕は、「声をかける」と「ちょっと思い出しただけ」を通じて、一つのことが分かった気がしている。僕は、「混じり合いたい」から寂しいのだと思う。「混じり合うこと」に夢中になりたい。何もかも忘れてしまうほどに、世界にはそれしかないみたいに、それだけしかできることがないみたいに「混じり合いたい」。

「混じり合いたい」というのは、共依存の関係だ。
いまさら、僕は誰かとそんなことができるのだろうか、いや無理でしょう。
でも、何かにアディクトするしかないのだろうね、とは思う。
何か、強烈に、それしかないみたいに。夢中になれたら、それが全て、と
言えるものに。

僕は、友達を作ることが難しい。その人が自分のことを友達と思ってくれるのか、それが分からないと友達と呼べない。気持ち悪いが、「友達でも大丈夫ですか?」と、友達になりそうな人に確認してしまう。これもきっと、「混じり合いたい」欲望からくるものなのだと思う。だから、僕は友達が自分以外の人と仲良くしているときに、今でも嫉妬するときがあるのだと思う。ああそう、僕のことはどうでもいいんだね、とか本気で感情が先走ることがあるのだ。

でも、今回のことで分かった。僕は「混じり合いたかった」んだ。
でもそんなことは、冷静に考えればあり得ない。せめて、というか、最良の関係性は、お互いがしっかり手を繋ぐことだ、自分の足で立って。

ようやく、そんなところに、たどり着いた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?