6月4日
何かしらを毎日の様に思い、メモをしていたけれど、なんだか億劫になって日記を更新できずにいた。活力がわかないということと、今までは帰りの電車でフリックで日記を書いていたのだけど、本を読むスピードが上がったり、色々と漫画を読んだりしていて、移動時間がまるまる読書の時間になりつつあり、そのため、ちょっと間が空いてしまった。
先週は長女の運動会を見に行ったり、妻と久しぶりに買い物に行ったり、外食に行ったりした。僕個人としては、小沢健二の「BUDDY」をメルカリで買ったりした。
出張に行って講師対応をした。
移動中に読んだ「鈴木先生」にはまってしまった。
今日は中途半端な時間に直行となり、待ち合わせ時間通りに行こうとすると最寄駅から電車に立っていかなければならず、いつも通り家を出た結果、1時間も待ち合わせ時間よりも早く待ち合わせ場所についてしまったため、マクドナルドで本を読んだり、マンガを読んだりしていた。
二階堂奥歯「8本足の蝶」を今日から読み始める。と言っても、多分これを読み切るということはできない気がする。パラパラと読むことしかできない、というのか。
僕は、実存する誰かが、実存する誰かについて好意的に思い出しながら書く文章が好きだったな、この本を読みながら思い出していた。具体的に、どの本、とは思い出せないんだけど、誰かが誰かを回想しているというのがフォーマットとして好きんだと思う。そこは自分と、その対象が融解してはたして本当のことが良くわからない、というのか。事象としてのリアリティよりも感情としてのリアリティの方が全面に立つというのがとてもいいなあ、というか。
二階堂奥歯の日記を読んでいると、あまりに自分がフェイク/紛い物で、軽率で、薄っぺらいのかが分かる。僕自身には、何というのか、狂気とか才能とか天啓とかギフテッドとか、そんなものは何もないということが
良くわかる。しかし、二階堂奥歯のような、そういう人間のあり方でいたい
(サイキックでエキセントリックな感受性のなかでおぼれていること)とか
今でも思うけど、結局はそんなことにはならなかった凡人でしかない。
自分の生きづらさってどこからきているのかなあと久々に考える。発端は色々と合ったように思うけれども、大きな影響の一つは高野悦子の「20歳の原点」を高校生の時に読んだことにあるように思う。
早熟でもないのに、早熟なふりをして。ただ熟せないままになった。それが結局は、ただの自分で、その罪でずっと熟せないのだろう。
ただ、自分の好きな言葉はアマチュア(in-mature)であり、熟れないことであるのだから、ずっとその場にいつづければいい、と
朝のマクドナルドで考えていた。
自分を海に細く垂らしてみる。自分を静かにそのまま垂れ流してみる。その様子を仕事の合間に、目を閉じて想像していた。