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アール・ブリュットは可哀想だからTPOを考えなくていいのか?

前回書いた、障害者目線で見たパリ・オリンピック開会式。

これを書いていて思い出したのだけれど、
以前、障害者雇用で働いていた時、職場の最寄り駅前に、「スゴいキモチワルい看板」が出ていたことがあったんですよ。

その看板、駅入り口正面の隣に、デカデカとあったのですが、内容が
「人間の内臓の絵、のみ」
だったんですよ。
何の看板なのかはわからない、んですよ。

ピンク色を主体としたパステルカラーのイラストで、色味は可愛らしいのですが、どこからどう見ても
「人間の腹を開けた内臓の絵」
なんですよねぇ…(泣)。

たしか、うん○もはみ出ていたような…。

これから仕事だ、という朝っぱらからその絵を見せられて、スゲー気持ち悪くなったのを覚えています。

あまりにも気持ち悪かったんで、翌日もあったら、駅前の交番に看板の広告主がわかるかどうか訊いてみよう、と思っていたのですが、翌日にはアッサリ撤去されていました。

たぶん、私以外の誰かからクレームが入ったのよネ…。
というより、クレームの嵐だったのかも…。^ ^;


みんなが使わざるを得ない駅の正面、ってことは、朝夕毎日誰もが見る可能性のある場所に、色味はカワイイ(w)にしても「グロっっグロ!」な絵を掲げてしまう、空気の読めなさ加減から想像したんですが、
「もしかしたらコレ、障害者アートなんだろうか?」
と思ったんですよね。

その駅周辺には、障害者向けの事業所がいくつかあったこともあり、
もしかしたら
「ウチの事業所の利用者さんが、スゴい絵を描いたから、みんなに見てもらおう!ほめてもらおう!」
なんて、短絡的に考えた支援者がいたのかなぁ…。
と、連想してしまったんですよ。
(単なる私の想像なんで、事実は全く違うのかもしれません。)


障害者支援施設って、福祉に関して全くの素人でも、割と簡単に参入できるんですよね。
経営自体もそうですが、人手不足なこともあり、単なるアルバイトが支援員をやっている事業所もあったりするんですよ。
そうすると、「障害者」の見方にミョーなバイアスがかかった人がいたりするんですよねぇ。
障害者は天使!
みたいな、ね。^ ^;

いや、障害者だって単なる人間だよ。
良い奴もいれば変な奴もいる。
むしろ、いろいろ「嫌な目」に遭っている分、性格がひしゃげやすいと思いますヨ。

その「障害者」が作ったモノって、そんなに「有り難いモノ」なのか?


アール・ブリュットって、訓練されて作った訳ではない美しさ、なんかが素晴らしいんですよね。
理屈で考えて構築されたモノには無い「凄さ」がある。
それが、障害者アートの価値だと思うんですよ。

だけれど、その価値基準に対して、
「可哀想な人が一生懸命作ったんだから、価値を割り増ししてよ」
という感覚って、誰もが持ちやすいと感じるんですけれど、コレってどうなのよ?
(可哀想なトランス女性が一生懸命ドレスアップしたんだから誉めて!も同じ感覚、かな…)

ご祝儀相場的な感覚は、それはそれで良い、と思うのだけれど、作品自体の価値の割り増しのために「可哀想」「一生懸命」を持ち出すのは、作った人にも作品にも失礼だよな…と思ってしまうんですよねぇ。


で、ね。
前述の内臓の絵、もし、地下のライブハウスに降りていく階段なんかに描いてあったら、もう単純に
「スゲー!!」
と思えるんですよ。
色合いもデッサンも、素晴らしいんですから。

ただ、朝っぱらから見たいモンじゃないのは、ほとんどの人にとって「そう」なんだと思うんですヨ。

TPOを考えないと、例えどんなに良いモノでもダメ!になっちゃうよねぇ…。

パリ・オリンピックの開会式も、
もし、ゲイクラブのショーとして、あの最後の晩餐パロディや城全体から血が噴き出すような効果をやったら、善悪の話は別として、スゲー!と絶賛される、と思うのヨ。
でもそれ、オリンピックでやったらダメでしょ?って話よね。


【多様性】の実現って、なんでもかんでも区切りを取っ払えばイイ、なんてもんじゃないのよネ。
いろいろな人が、みんなで気分良く生活するためには、TPO、とっても大事、ですよねぇ…。



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