「居場所」って、「帰属集団」のこと?
このところあちこちから「居場所を作りなさい」と圧力がかかり、辟易しております^ ^;
私はもともと一人が苦にならない「ひきこもり気質」なので、一人で過ごす自分の借りているアパートの一室だって、十分「居場所」だと思うのですが、周囲の人が言ってくるのはそういう意味じゃないんですよね。
「一人でいる場所は、『居場所』ではない」
ということを言ってくるんですよ。
彼らの言う『居場所』とは、『人間の集団』のこと、なんですよね。
つまり、帰属集団。
なんで人間は集団に属さなければイケないのか? をつらつら考えてみます。
帰属集団とは?
帰属集団って、要するに家族・学校・企業のような、「自分はその集団に属している」と思える、帰属意識を持てる集団のこと、なんですよね。
↓帰属意識 コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B0%E5%B1%9E%E6%84%8F%E8%AD%98-50728#:~:text=%E3%81%82%E3%82%8B%E7%89%B9%E5%AE%9A%E3%81%AE%E9%9B%86%E5%9B%A3%E3%81%AB,%E7%9A%84%E3%81%AA%E7%8A%B6%E6%85%8B%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%99%E3%80%82
私はコレに対して、とても苦手意識を持っています。
帰属集団の最初の単位である原家族からも、今は断絶しております。
(そうなるまでのイキサツは長くなるので、今は省略。)
その次の集団である学校・職場では、たぶんASDグレーという自身の特性もあり、私はかなり浮いていましたし、イジメも受けました。
私自身、変わっているという自覚はあるので、周囲に馴染まなければ、と出来る限り周囲に合わせようと頑張りましたが、無理でした^ ^;
コレ、どうしようもないんですよねぇ。
最初に就職した職場でも、お昼休みの会話に合わせるためだけに、帰宅後何が面白いのか解らないTV番組を必死で見たりして…とても疲れるし虚しかったですヨ。
ガンバればガンバるほどテンパって挙動がおかしくなるし、神経すり減らして疲労困憊するし。
そんなにガンバっても、「変である」ことはどうしようもなく変わらないことなんですよね。
そして人間の集団ってどうしても、「異質な者」を嫌悪して攻撃するんですよねぇ。。。
異質な存在は許されない?(排除するクセに強制的に帰属を求める)
なんで異質な者を嫌悪・攻撃するのか。
やっぱ、同質集団に害悪をもたらす者、と捉えるからですよね。
同質性が保てなくなると、不文律が上手く働かなくなり、集団内がギクシャクして来る。
同質集団の安定性、つまり同質集団の存亡がかかってくるワケで。
そりゃあ攻撃・排除しますよネ。
。。。けれど。
この「排除」という行為は、人間にとって本能的にケツの座りの悪い行為なんですよね。
少数者を排除したら自由主義経済が成立しなくなるのと同じで、異質な者を排除し続けると「同質であること」が極まってしまい、同質集団内での些細な違和感すら許せなくなってしまう。
結果として同質集団の崩壊につながることを、たぶん本能的に察知できるのでしょうねぇ。
だから、「オマエのことイジメるけれど、いなくなることは許さない」という、イジメっ子・イジメられっ子・傍観者の全員が、居心地の悪い状況になってしまうんですよね。
(イジメる側だって、常に悪意を発現させ続けるなんてのは、疲れるし嫌なもんでしょ?)
この「アンビバレンツ」を常に内包し続けるのが「人間の集団」なんでしょうねぇ。
でも、この「アンビバレンツ」って、かなり苦しい。
例えば、トランプさんに熱狂的支持者が絶えないのも、苦しいからこそなんだよね。
トランプさんのやり方って、ある意味とっても感情に素直なのだけれど、冷静に考えたら「そりゃダメだろ!」とわかるものなんですよ。だけど、「ダメなのはわかるけれど、もう感情的にいっぱいいっぱいで耐えられないんだ!」と感じる人が少なからずいるから、支持が絶えないんだよねぇ。。。
。。。たぶん、ね。人間的な成熟って、アンビバレンツを内包したまま感情や欲望に流されず安定していられること、なんだよね。。。
成熟しきれない人、成長が凸凹の人には、かなり困難なことなんだよねぇ。
異質な者は帰属できない
「帰属」って何なんだ、というと、「私はこの集団を構成する人の内の一人です」と堂々と言えること、なんだと思うんですよ。
例えば学籍がその学校にあったとしても、その学校で浮いている・異質であることを自覚している人って、「私はあの学校の生徒です」と正面切って言うことに後ろめたさを感じるんですよね。
だって、その集団に馴染んでいないし、クラスメートは自分のことを仲間とは思っていないことを自覚しているのですから。
「帰属」って、どこまでも自身が「この集団の一員だ」と感じることができることなんだと思うのですが、そうすると、どこへ行っても異質である人って、どこにも帰属できないんですよね。
学生ならば、社員ならば、日々出席する場所があれば、それで「帰属している」、ということにはならないんですよ。
私は障害者向けの就労移行支援事業所に通っていたことがあるのですが、そこで気付いたことは、「障害があるから変わっている、というわけではない」ということなんですよ。
その事業所は、職員さんがフレンドリーに接してくれて、利用者同士も和気あいあいとしていて、私としては珍しく違和感を持たずに過ごせた場所なのですが、他の利用者さんと雑談していて思ったのは、「障害があろうがなかろうが、マトモな人はマトモ」ということでした。
障害によって異質さが強まることはあると思いますが、異質であるというのは障害の有無とは別の問題なんですよね。
実際、ひきこもっている人って、障害と言える人ばかりではなかったりします。
ひきこもる人って、集団に帰属できないから人から離れたい→ひきこもる、のじゃないでしょうか。
帰属できない集団内に「居させられる」のは、辛いですからねぇ。
けれど、適度な距離が保てていれば、例えばSNS上だけのゆるくて対等な付き合いなどは、落ち着いてやり取りができる。
この「距離感」と「対等な関係」ってとても重要だと感じます。
例えば行政の職員さんや、スーパーの店員さんとは、普通ににっこりとやり取りできる。
コレ、相手がこちら側に不用意に踏み込んでこないのがわかっているから、なんですよね。
けれど、距離の近い家族や友人となると違います。
遠慮なく感情をぶつけてマウントを取ってくる、つまりこちらの領域に侵犯してくるんですよ。
例えば、「障害が軽そうに見えるのに年金を貰っているなんてズルいよねぇ!」なんていう、人の生き死にに関わるようなことまで非難をしてくるのは、距離の近すぎる人。
非難することで引け目を感じさせ、下手に出させようとする、集団内でのマウント合戦の一種ですよね。そういう順列のある関係が、とても苦手なんですよ。。。
外出するのが怖いひきこもりって、他人から非難されるのが怖い、ということだと思います。
他人の目が怖いって、他人からの非難がましい視線が怖い、という意味ですよねぇ。
で、そういう非難の感情を実際にぶつけて来るのは、いわゆる帰属集団内にいる「距離の近い人・順列の上位になりたい人」なんですよ。
家族や同僚という実際の帰属集団は、恐ろしいです。
けれど、行政区域のような抽象的な帰属には、恐怖をそれほど感じないんですよ。
彼らとは儀礼的な付き合いで良いから、直に感情をぶつけられないし、マウントを取られる必要も無いから、です。(時々ヘンな行政職員もいるけどネ^ ^;)
逆に現実の帰属集団には、儀礼的返答(儀礼的無視)が通じないんですよね。そんなところが鬱陶しいなぁ、と感じてしまうんですよ。
「障害の社会モデル」なんじゃない?
「帰属集団を持つことで、倫理が身に付く」という面は、確かにあります。
仲間内でのルールを守らなければお仕置きを喰らう、という行為を通してルール(倫理)を学ぶわけですが、その帰属集団自体が半グレだったりしたら、倫理としては意味無いですよね?
いわゆるひきこもりの人に対して「帰属集団を持ちなさい」と圧力がかかるのは、一種「犯罪抑止」の面があると思うんですよ。
無敵の人になっちゃう人って、社会から切り離された人ばかりですから。。。
でもねぇ、沈思黙考タイプのひきこもりって、結構「帰属は地球人類」みたいなタイプも多いと思うんですよ。
母数を最大限にしてしまうと、個別性は薄まってどこまでも「対等」になるから、イジメも無意味になります。
そうなると、他人に危害を加えようなんてことは一切考えないですよ。
むしろ、変に身近過ぎる人々の集団内でイジメられたりしたら、「アイツぶっ〇してやる!」なんて憎しみが生まれますよねぇ。
異質な者をイジメることがデフォルトの、同質を善とする社会集団の側に、「多様性を保つことの意味」を意識的に理解してもらわなければ、「異質な者」は具体的な帰属なんてできないですよ。
社会のシステムが障害者を拒んでいるのに、「参加しない障害者が悪い」と言われても困る、という障害の社会モデルの考え方と同じですよね。
私のような、スキゾフレニックな性格傾向の人、異質な人は、少数ながら必ず存在してしまうんですよ。
存在自体が悪、なのではなくて、都合の悪い存在自体を無かったことにしてしまう社会システムの側の不備、なんですよねぇ。。。
ひきこもる人の社会的帰属の問題って、つまるところそういう問題なんだと思いますヨ。