42.天に近い ほしだ園地
大阪府民の森ほしだ園地は、1997年に府政100年を記念して、交野市に開設された面積105haの公園です。花崗岩の山で、「なみはや国体」の登攀会場として整備されました。金剛生駒紀泉国定公園の一部に位置しています。
2018年4月7日、交野市に入り、天野川を上流へ進み、ほしだ園地駐車場へ。入口から森林鉄道風遊歩道を歩くと、わんぱく広場に出て、見上げると右手に哮ヶ峰の岩壁、並んで左手に高さ16.5m、オーバーハング2〜5mの人工のクライミングウォールがあります。
訪れたときは、哮ヶ峰の上にオオタカがいたので、バズーカ砲のような大きな望遠レンズを三脚の上に置いて、岩壁の上を狙っているカメラマンが十人ほどいました。哮ヶ峰は、天照大神の詔を受けて、駐車場より天野川上流にある磐船神社の天の磐船に乗って、同社祭神の饒速日命が天孫降臨した神の依り代だとされている磐座です。現在では、ロッククライミングに利用されており、その左手に国体用のクライミングウォールをつくったのです。
『河内名所図会』の名所絵の巌舩には、星野の集落から山路を超えて巌舩神社にやってくる人々が描かれており、この神社の裏の山が、ほしだ園地となります。名所絵からは、1800年頃の星田の山々、つまりほしだ園地は、アカマツと、コバノミツバツツジなどの低木の柴木と、草の山だったことがわかります。
さらに『河内名所図会』の名所絵には、天野川の名所絵の鮎返滝、星田の集落の裏山の星田妙見、下流の天野川、惟喬親王遊猟の図が載っています。星田妙見は、星田集落の裏山で、現在のほしだ園地の北西方向の山頂にある社寺です。こちらも、アカマツ、低木、草の山として描かれています。
わんぱく広場のとなりにある園地案内所のピトンの小屋で勧められて、つつじの小路まで登っていきます。園内のコバノミツバツツジの案内板には「アカマツが高木層を優先していたころ(1970年以前)には、低木層としてコバノミツバツツジが群生していた。生駒山系の代表的な植生として、アカマツ-コバノミツバツツジ群落を形成していた。近年は常緑樹のソヨゴが繁茂して日光が遮られ、開花できず生育も阻害され、少なくなっている。当園地では、主にソヨゴ等の常緑樹を伐採して林内に光を当て、ツツジやササユリ、スミレ等の開花促進と生育環境の復元にとりくんでいます。」と記されていました。園内のツツジとして、コバノミツバツツジ、モチツツジ、シロバナウンゼンツツジが自生しています。
シロバナウンゼンツツジの案内では「葉は1cm、花は2cmぐらい。ピトンの小屋の裏山から展望デッキにかけて自生。『らくようの路』で多く見られます。ほしだ園地に自生しているのは日本の東限近くにあたります。開花ピークは4月下旬。(常緑樹)」と記されています。残念ながら時期が早く、著者はシロバナウンゼンツツジは確認できませんでした。シュンランが咲いていました。
ほしだ園地のシンボルは、長さ280m、高さ50mの木床板人道吊り橋「星のブランコ」です。
交野ヶ原と呼ばれた枚方から交野にかけての地は、『伊勢物語』第八十二段にも記された、七夕伝説の地です。交野ヶ原の天野川の下流に、惟喬親王(844~897年)の別荘である渚の院がありました。淀川支流の天野川は、上流の花崗岩が風化した真砂土の白い砂が、広い河原に広がっていました。この砂河原が、天の川に似ていました。
伊勢物語では、惟喬親王に随行した在原業平が、
狩りくらし 棚機乙女に 宿からむ 天の河原に われは来にけり
訳
狩をして日暮れになったので 七夕姫の家に泊まりましょう 天の川に 来てしまったから
ともに随行していた紀有常が惟喬親王の代わりに詠んだ反歌は
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
訳
1年に一度 訪れる彦星を 待っているので 宿を人に貸してもらえないと思います
著者がほしの園地を最初に知ったのは、Aさんという優秀な学生が、自宅近くのほしだ園地で見られる動植物の素晴らしいポスターと、3D-CADを使った星のブランコを授業で制作したからです。彼女は、自分の体験をことば、撮った写真、3Dで正確で魅力的に表現するのに長けていました。撮りためたヤツガシラ(野鳥)、梅と鶯、ニジイロトカゲ(ニホントカゲの幼体)等とともに、コバノミツバツツジの綺麗な写真も載せていました。技量を磨くことよりも単位を取ることが自己目的化して、ネットに載っている安易なことばを使い、テキトーに撮った写真を用い、工夫もせずに不格好な形を制作する困った学生が年々多くなり困惑している中で、彼女の作品というプレゼントは、教師冥利に尽きると感じました。
天孫降臨や七夕の伝承の地、惟喬親王が遊んだ天に近い場所に、ほしだ園地はあります。
秋里籬島『河内名所図会 6巻』1801