20.ただ三葉 千万人を おびき寄せ
牧野富太郎は、1934(昭和9)年春、西宮市の廣田神社で、コバノミツバツツジの花見に訪れる群集を見て、「ただ三葉 千万人を おびき寄せ」と詠みました。
宮本常一は、「山陽線の沿線の西播州の山地には紫つつじがとくに多く、車窓からこれを見ることができて、この花を見てすぎるたびに『晩春だな』という思いを強くする。同じ兵庫県西宮市の廣田神社の境内には特にこのつつじの大木になったものが多くて、その下に茣蓙を敷き、赤い毛氈をしいたうえで友と酒をくみかわしたことがあったが、桜花を見るのとは違ったしみじみとした感慨をおぼえた。」と記しています。旧暦の弥生3月、宮本が紫つつじと記したコバノミツバツツジの下で、宴会が開かれたのです。白幡洋一郎が説いたように、農村文化と、貴族文化から生まれたと市民の花見文化と融合して、群生ツツジ・飲食・群集という特徴を生み出したのです。
廣田神社のコバノミツバツツジは、江戸の元禄年間には歌に詠まれており、有名になっていたと伝えられています。周辺の村々の「春山行き」「春山入り」の習慣で、広田山のコバノミツバツツジを折って水田の水口に立てて、その年の豊穣を祈願したとされています。そして昔から、子どもたちの遊び場でした。
牧野や宮本が訪れた戦前は、廣田神社とその東側が、現在の神社境内や広田公園の面積の10倍ほど大きな丘で、アカマツの疎林の中に20万株のコバノミツバツツジが茂る里山でした。大正から昭和初期にかけて大正ロマンの時代、一見古風とも見える広田山のツツジ狩りが、阪神間モダニズムの中で花開いたのかもしれないですね。
戦中期には、コバノミツバツツジは燃料の柴材に切られました。戦後は周辺の丘が造成されて、宅地開発が進みます。コバノミツバツツジは、切っても萌芽力があるので、戦後は少しは戻ってきました。しかし、一時期は大気汚染で弱り、その後は人々が手を入れなくなって常緑樹が生い茂り、少なくなりました。そこで保存に向けて、1969(昭和44)年に、広田山のコバノミツバツツジ群落は兵庫県指定の天然記念物になりました。
廣田神社は、社寺林の33741㎡を無料で西宮市に貸し出して、市が広田山公園として管理しています。市では計画を立てて、神社と連携して、広田山コバノミツバツツジ群落保存会を結成して、市民とともにコバノミツバツツジの再生を図っています。
コバノミツバツツジの保全計画では、神社の境内と広田山公園を、コバノミツバツツジ低木林、コバノミツバツツジ低木林+アカマツ疎林、コバノミツバツツジ低木林+夏緑疎林、常緑高林、照葉樹林、検討中の現状維持の林の6ゾーンに分けています。このようなコバノミツバツツジの保全計画は先駆的です。著者の管見では、広田山公園と、今後報告する三次市の尾関山公園の2か所しか、ゾーニングによるコバノミツバツツジの保全計画を確認していません。
コバノミツバツツジ低木林のゾーンでは、常緑樹を伐った跡地に、種から育てたコバノミツバツツジの苗を植えています。
自然では少ない、白花のコバノミツバツツジも植えています。
毎年4月初旬の日曜日には、廣田神社でつつじ祭が行われています。ちなみに、神社本庁に加盟しているので、宮司さん同志は顔見知りも多いです。廣田神社宮司に、牛窓神社のコバノミツバツツジの話をしたときに「牛窓神社のO宮司の娘さんを研修にお預かりしましたが、牛窓神社もコバノミツバツツジの名所なのですか」と返答されて、びっくりしました。神社の祭礼などの行事を、宮司さん同士共有して研鑽しているのでしょうが、著者の下世話な話に過ぎないかもしれませんが、ツツジ話でつながってなかったなんて。
いや、神社間のツツジ話ではなく、全国各地でツツジ保全をしている人々の話が、意外なほどつながっていないのです。自治体の花と木で一番多く選ばれているツツジなのですが。何とかつなげないと。
ところで、廣田神社は、神託を受けた神功皇后が天照大神の荒御魂を祀って創建されたとされています。牛窓神社の主神は、神功皇后です。幼いころ祇園祭の宵山、船鉾の前で伯父が「この船に乗って、お腹が大きな神功皇后さまは、軍を率いて三韓征伐に行かはった。むこうの戦地で皇太子を生まはった」と言ったので、「何で女の皇后さまが、さらにお腹に子どももいるのに、戦に行くのや?」と仰天したことを覚えています。神功皇后は、安産の神とともに、軍神ですね。
安産のお守り、勝ち守りもありでしょうが、廣田神社のつつじ守りはおススメです。つつじ守りは、他社では見受けられないので、ツツジ名所の神社に私が伝えた方がよいのでしょうか。
宮本常一「ツツジと民俗」『いけばな芸術6 竹・藤・躑躅』1981 主婦の友社
白幡洋一郎『花見と桜 日本的なるもの再考』2015 八坂書房