シジューになった日。
昨日は40歳の誕生日だった。
ついこないだまで学生でテニスのボールを追っかけていたのに。
そりゃ酸いも甘いも人並みに色々あったが、好きなものも、嫌いなものも、中身の本質は昔となんら変わってない。
外見と付いてくる数字だけ変わっていって、自分ではまだ30くらいの感覚なのに、今私にはじめて会う人にとって私はまごう事なき「相応に老けた40のおばさん」なのだから不思議だ。
今日び「30代です」と聞けば、近年若々しく美しい女性もたくさん増えて、私たちが小さかった頃のいわゆる「30代=おばさん」という感じではなくなっているように思う。
しかし「40歳です」と聞いたら、「あーあー」といった感じで、もう逃げも隠れもできないれっきとしたおばさんだ。
もう恥ずかしいことはできない。ちょっと若い子に熱でもあげようものなら友達家族親戚はおろか全国的に笑われてしまう年齢だ。
そして失敗は全て自己責任。もう若さのせいにできない。
こわい。
そんな40代になってしまった。
私は20代で大きな病気をしてしまい、上がり下がりを経つつ現在は実家で在宅の仕事をしている。
家からもさほど出ないため、人によってはニートと呼ぶかもしれない。(いやかなり近い。実際寝巻のジャージで髪もとかさず一日を過ごすこともある。なんだ ザ じゃないか。)
人並みに結婚したこともなければ勿論子どももいない。
実家でつつましく親と暮らしている。
結婚率が年々下がっているとは聞くが、中年の一人暮らし率も下がってやしないかと思う。実際うちの近所には、私のような「未婚の40代、50代・実家暮らし」がわりといるのだ。
「50・80問題」(引きこもりが50歳になり、高齢の親を持ち、その後詰むコース)が最近叫ばれて久しいが、正直全く他人ごとではない。直球ど真ん中コースだ。
「…どうしよう」
そんな気持ちを、日々の忙しさ(としている)や豊富なエンタメでごまかしつつ生きている。胸の底にはヘドロ。
そんな状態で迎えた昨日の40の誕生日。
夜、仕事を一区切りつけて食卓へ降りると、老いた母がバースデーケーキと小さな花束を用意してくれていた。
「○○おたんじょうびおめでとう」と書いてあるホワイトチョコプレート付きだった。
ケーキの周りには、「あの子はこれが好きだろうな」という想いでスーパーで買ってこられたであろう、トンカツ弁当やエビのサラダなどおいしそうなものが蓋を開けられ賑やかに並んでいた。
私はそれを見て、胸がつかえ、何とも言えない気持ちになった。
先日、三年ぶりに兄が帰省した際、母親が兄のために買ってきたお菓子のなかにあった「ルマンド」。
兄は高校時代ルマンドにはまってよく食べていて、母はいつもそれを買ってきていた。
そのルマンドを、母は、もう50近くもなる兄の帰省にあわせて買ってきた。
そして兄は、それを食べずに帰ったのだ。
兄が去った後、全く手を付けられず残されたルマンドを見て、私はなんとも物悲しい気持ちになったものだ。
40になった娘のために、ケーキと、娘が好きであろう精一杯のごちそうを考え買ってきた母を思うと、そのルマンドを見た時と同じような、何とも表現しがたい気持ちが沸き上がった。
恐らく、「母が可哀そう」という気持ちが一番だと思う。そして「母に申し訳ない」という後ろ暗い気持ち。なんせ二階から降りてきた私は、ジャージ姿に髪の毛ぼさぼさ。ずっとパソコンに向かっていたので今日は自分の顔すら見ていない。ひどい状態だ。
さらに「気恥ずかしい」。そんな感情もあった。「いい年して親に祝われるぼさぼさの子どもキツイ」これはもちろんある。40なのに。もう40なのに。
こんな乞食のような娘にまで気持ちを配っている母を見て、胸が絞られるようだった。
私はうまく生きてこられなかった。
「最高にうまく生きてる!」と思えていた時ですら、今思えば絡まった知恵の輪がひと時、ただ緩んでいただけのような気がする。
頑張ったけど、頑張っても、結局身になったことがとても少ない。
最近では何かでいつも忙しいふりをしている。大事なことをやっていると思いたくて。
これでも進んでいると思いたくて。どこかへ行けると思いたくて。
ただ実際は、どこかに行けるどころか
普通の人なら手の間からこぼしても気にも留めないような何かの粒を、
這いつくばって探しては、拾って集め、意味を持たせようとしている。
ずっとこの場所で。
30代は猛烈だった。色んな事が起きたからだ。
でもそのおかげで(そのせいで)、少しは自由になった気がしていた。
でも40代のさいしょ。まだここにいる。
40代の終わりはどこにいるのかな。まだ探しているのかな。這いつくばっているかな。
そもそも生きているんだろうか。
悪い想像はたやすい。
ただひとつ、これを50歳になったとき、生きていれば読み返して、
自分がどう思うのかだけはちょっと楽しみだ。
40のさいしょの日に。
キラキラしたニジューになれなかったシジューが綴る。
PS.ケーキは母と両端からスプーンで掬い、ほじりながら食べました。
気づけば全く同じ形にほじっていたため、ふたりで笑いました。