感動したこと、すぐ忘れる。
私はわりと感動しやすい。
冷たそう、怖そう、何を考えているのか分からないなどと昔から言われてきたが、一方そのころハートは人一倍揺れやすく、ウォーミングなのであった。(先日あぶらとり紙で有名な京都よーじやさんのキャラに顔が似ていると言われた。冒頭の印象の並びを考えると、よーじやさんに大変失礼である。)
今日はアザラシの赤ちゃんをテレビで観かけて泣いた。可愛かった。うるうるしたお目目と丸っとした体つきで懸命に生きる姿が愛おしく、感動し、ちょろりと涙が出た。だがひと呼吸おいて次の瞬間には植物の手入れに取り掛かっていた。
そんなちっぽけな与太話から、「これは人生における大切な一歩になったな!」とフンガフンガ気持ちの高まる素晴らしい出来事まで、早ければ一瞬、遅くてもだいたい丸2日ほどでその時の感動をきれいに忘れてしまっている気がする。
正しくは、忘れていると言うより、あの時湧き上がった何か熱いものがどこかへいってしまってる、というのに近い。
あんなに嬉しかったサイン色紙、一目惚れした異国の水晶、運命を感じた絵、探し回ってようやく買えたバッグ、素晴らしい演奏、号泣した物語、知りたかった答えに出会えた瞬間、仲間ができたと感じた時。
大きな喜びや感動を幾度も体験しては、その都度無くしてきた。だめだ書いてて悲しくなる…
特に「素敵な人が持っていてすごく素敵だと感じ、自分も似たようなのが欲しくなって買った物」、この品への ’感動失くし力’ は申し訳ないが半端ない。群を抜いている。
素敵な人が持っていたから素敵だっただけで、私が持っていたところでそれは全く「素敵な物」ではないことに気づく。私とその物の間には、何のストーリーもないのだ。その事実が哀しい。あとお金ももったいない。
ーーここまで書いて、ひとこと言い訳をしたくなった。素敵な人の持ち物の話をしたが、友人の小物や彼氏がよく見えたり、あまつさえ手を出したりと、そんな事は一切ない。盛大に保身を挟みこんでおく。人のものが全て欲しくなるわけでは決してない。
言い訳が済んだところで本題に戻る。感動を忘れてしまう話でした。
まぁこのような状態ゆえ、物品に関してはようやく自分のことを少しコントロールできるようにはなってきた。「うわーこれ素敵!」とか「欲しい!」と思った時、((盛り上がっているのは 今だけだよお前))と私の中のアフロディーテが優しく諭す。その声に耳を傾け、岩場に打ち付けられドパンと噴き上がる海潮のようなほとばしりをひととき収めれば、何のことはない。だいたい忘れるのだ。
しかし、仕事や人びととの関わり合いのなかで感じた感動、うまく行った時の大きな喜び、その結果湧き上がった熱意、そんなものがシオシオとしなびているのに気づく時、先の物品の比ではないくらい自分にがっかりする。
あの時はあんなに湧き上がっていたのに。’愚か者’という言葉がぴったりだ。私の感動はいつのまにか日々のせわしなさに取って代わられ、いや、自ら席を空け渡しているのかもしれないが、どちらにせよもうそこにはない。そんな自分をとても幼く愚かに感じ、好きになれない部分のひとつだわ…と哀しく思っている。
ここでは何かを解決したり、誰かに学びを与えようとしたり、そんなしゃらくさいことは無しにしたいので「自分はこう思っている」というだけで話を終わりにしたい。リハビリなのだ。(詳しくは第一話に)
ただひとつ、少し言えるとするならば、消えていった感動たちは無駄死にではなく、その日、その時を大きな炎で燃えがらせ、照らし、しばし生き延びるすべとなってくれた薪であったのだと思いたい。
マリオがスターを取った時のような、たった一瞬の輝き。その時間はすぐに去ってしまうけど、その瞬間は確かに無敵だったのだ。