私の人生の目標って 2
前回は女子高生時代の私。
今回は就活~病気、1回目の転職。
最後は移住と2回目の転職。
女子高生だった頃の私について書いた。
今回はその続きから。
就活をしていた頃の私
大学三年生の終わり頃、周りの流れに乗って
周りと同じように就活を始めた。
12月頃からインターンや会社説明会が始まり、年明けには本格的に選考が始まった。
私の就活の軸は高校生のころと変わらず観光に関わる仕事をしたいということだった。プラスして地域貢献ができる仕事も視野に入れて就職活動を行っていた。
高校時代と変わったことの1つとして”人とかかわる仕事が好き”ということに大学時代の経験から気が付いた。
だから”人”という部分にも着目して会社を選ぼうと思っていた。
そんな中、新型コロナウイルスが流行りだした。
何もかもが想定外だった。
観光産業を目指している自分にとっては大打撃であった。
選考見合わせで三か月近く再開を待った企業もあった。
(結局そこは選考中止になってしまった。)
なにより一番つらかったのはインターンで衝撃を受け第一志望群にしていた企業が選考見合わせからの中止になってしまったことだ。
最終選考まで進んでいてあと一歩だった。すごく悔しかった。試合をする前に試合が終わってしまったのだ。
この時同時に、所属していた吹奏楽団の演奏会も中止が決まった。
就活と並行して練習に励んでおり、絶対にいい演奏をするんだと思っていたのに、未知のウイルスによってそれすらもなくなってしまった。
友達と出かける機会もなくなった。
就活のガス抜きをする場所がなくなってしまった。
この時は目の前の目標や将来の夢も全部なくなりどうしていいかわからず、涙を流す日も多かった。
かといっていつまでも立ち止まっているわけにもいかず、就活をリスタートした。そして無事内定をもらった。
東海道新幹線に関わる仕事でたくさんの人と話す仕事だ。
幼少期に家族で旅行に行った際、”いつかあのお姉さんになりたい!”と憧れていた仕事だ。 その憧れは大学生になっても変わらずずっと持っていた。
憧れではあったけれど、まさかその憧れのお姉さんに自分がなれるとは思っていたなかった。
また頑張ろうと目標ができた。
新卒で入って病気をして辞めてしまった頃の私
ついに憧れのお姉さんになった。
憧れの制服に腕を通し、華やかなスカーフを首に巻いた。
憧れの先に進んだ瞬間だった。
この日のためにダイエットをした。
制服をきれいに着こなすために12キロのダイエットをした。
研修が始まった。
まず最初にきれいな制服の着こなし方、スカーフの巻き方に苦戦した。
全部で6種類あったスカーフからお気に入りの1枚を選んでお気に入りの結び方で毎日の気分を上げていた。
実際のお客様と話すのはまだまだ先で、社内での厳しい研修漬けの日々だった。でも憧れだったからつらくはなかった。
ようやく乗務が始まった。
研修生のバッジをつけてお客様の接客や対応をした。
コロナ禍で乗客は少なかった。
揺れる車内で2時間半歩き続けるのはすごく大変だった。
初めてつらいとその時思った。
けれどお客様の笑顔や、「研修頑張ってね!」の言葉に励まされた。
実際の乗務が始まりつらさを分かち合うことで同期の絆もできた。
これからもっと頑張って等級を上げて他の仕事もできるようになろう!と意気込んでいた。
そんな矢先、病気をした。診断は原因不明の顔面神経麻痺。
仕事帰りまばたきがしにくいなと思いつつ帰宅してご飯を食べていたら
口にがうまく閉まらず汁物が口からこぼれた。同時に耳の痛みがあることにも気づいた。
不安に駆られた。次の日朝イチで病院に行こうと思っていた。
次の日起きたらもっと顔が動かなくなっていた。右半分だけ動かない。
(顔面神経は左右で分かれているので麻痺を起こすのは片側だけ。)
調べると耳鼻科の範疇らしく耳鼻科に行った。
紹介状を書くから急いで病院に行けと言われた。
女医の先生で、寄り添うようにことの重大さを伝えてくれた。
泣きながら大学病院に行った。
大学病院でいろいろな検査をした。
味覚の検査(まひで味覚を失うため。)、涙の検査(まひで涙が出なくなるため)、念のため脳の異常確認でMRI。
そして一番痛かった、筋肉の反射を調べるために顔に電気を流す検査。
麻痺していない左側を100%として、麻痺している右側が何%動くかを調べるのだ。
結果はすべて最悪。 重度の顔面神経麻痺だった。
神経が炎症を起こし断裂した結果起こるらしい。
炎症の原因は不明だ。
診断を受けたときはずっと泣いていたのでこの時どんな説明をされたかはきちんと覚えていない。
ただ一つ、後遺症が残るのは確実だといわれていたことは覚えている。
だから今でも表情が不自然になる。鏡をみて悲しくなる。
対処療法と自身の治癒力次第だったが、リハビリにも通った。
療法士の女性の方がいつも優しくていつも泣いていた。
それ以外は人に顔を見られるのが嫌で引き籠っていた。
シフトを調整してもらって、休みを使いきって
足りない分はちょっとだけ欠勤という形でちょっとだけ休んだ。
乗務に復帰した。研修生のバッジも外れて、晴れて一人前になった。
右側だけ全く動かない不自然な表情でお客様に接するのはつらかったが
幸いコロナ禍でマスクをしていたので少しごまかすことができた。
ここで2つ目の後遺症に気づいた。
ひどい乗り物酔いだ。
顔の神経と三半規管の神経は同じなので、乗り物酔いという形で後遺症が顔を見せた。絶望した。
1か月ほど頑張ってみたがしんどさがピークになり休職した。
経過観察をしたが戻らなかった。
休職期間、大学時代の友人が暇だろうとゲームに誘ってくれて毎日のように話しながらゲームをしていた。
最初は2人でやっていたが1人増え、また1人増え4人でゲームをしながら何時間も話すことが日常になった。
すごく気晴らしになったし励みになった。
そして仕事を辞めた。
新幹線に乗務するという特殊な環境柄、ひどい乗り物酔いという後遺症はあまりにも致命的だった。
悔しかった。
憧れを手放す瞬間がつらかった。
大学まで出してくれて、内定が出たときに喜んでくれた親に申し訳なかった。
また一つ目標を失ったのだ。
そして転職をした。
転職して最初の日には、いつも一緒にゲームをしていた3人が、復職おめでとうと言ってくれた。うれしかったし与えられた環境で頑張ろうと思った。
しかし、精神的にぼろぼろの状態での転職活動は失敗に終わった。
長くなるのでここから先は次の記事に書くとしよう