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A Hard Day's Night/The Beatles('64)


A Hard Day's Nightのイラスト

10年後(1974年)のビートルマニアの話です。

「ビートルマニア」的な現象は、ビートルズのデビュー以降1963年ごろイギリス全土に広がり、ヨーロッパ、アメリカ、日本にも広がった、女の子の金切声による熱狂的な追っかけのたぐいで、概ね1965年頃まで続いた社会現象、簡単に言えばそんなことです。それまで静かで秩序正しかったイギリスで文字通り病気に近いものだったようです。大勢が押し寄せ、ライブの音は悲鳴でかき消され、ゼリーのお菓子がステージに投げ込まれ、座席は女子のおしっこでびしょ濡れになったとか。

ビートルマニアの歓声

「ビートルマニア」という言葉自体は、イギリスの日刊紙が使い始めた造語のようです。当時の英国内の列車強盗事件などの大事件やEC共同体参加への反対運動などの国政のゴタゴタなど、当初はただ暗いばかりの新聞記事の気分を軽くするものとしてこの造語を取り上げたようです。しかしその造語と記事に反応してティーンエイジャーたちも新聞を読むようになります。当時は、新聞社としても新聞を売るのにビートルズを話題にするほど確実な方法はなかったみたいです。「ビートルマニア」という造語はマスコミが作り、そのこともマニア増殖に影響したことは言うまでもありません。マスコミの力で、話題やうわさがウイルスのように広がっていく現象は現在でも変わりません。

英デイリーミラー社の新聞記事

遠く離れた 日本でも、こんな紹介文が若者を刺激したことは間違いないと思います。

・紳士の国に騒音爆発!びっくりされるかもしれませんが、ビートルズ旋風を表現すれば、それが最も適切な言葉だと思います・・・云々

・ビートルズは揃って髪をマッシュルームカット(キノコ型の髪型)した、4人の若者グループです。穏やかで上品なイギリスに原子爆弾を思わせるキノコ型の頭をして爆発した面々は・・・云々

・ビートルズは、ドラムと電気ギターと時にハーモニカを使って騒音を作り出します。「自分の事は自分でやる」のがビートルズ主義。ビートルズは無尽蔵のエネルギーを秘めた原爆、いや水爆です。   

・ビートルズの自動車に近寄ろうとファン達は騒ぎます。警備に当っていた警官達はスクラムを組んで防ぎます。それでも、警官の“鉄条網”を突破してビートルズに殺到したファンはずいぶん多かったそうです。  

これらは、オールナイトニッポンの初代DJとして有名な高崎一郎さんが、ビートルズのレコードのライナーノーツに書いておられた言葉です。恐らく、ラジオではもっと刺激的に、紹介されていたのではないかと想像します。

余談ですが、大瀧詠一さんは、高崎さんの事を「少年時代のアイドル」と呼び、南佳孝さんも「自分の事は自分でやる(自作自演)」というビートルズを高崎さんから知って刺激を受けたとおっしゃっています。原爆や水爆って言われたら女子のみならず男子だって好奇心を駆り立てられます。ちなみに僕は、立川直樹さんなどある種の「教科書的なライナーノーツ」より、いかがわしいと言ったら失礼ですが、当時の高崎さんのライナーノーツを読みたくてOdeon盤をいくつか買ってしまいました。


このような社会現象が広がりつつある中、このアルバムは発売されました。ビートルズの3枚目のアルバムであり、かつ同名の映画で、日本では「ビートルズがやってくるヤアヤアヤア」という映画のサウンドトラックとして有名です。


実は、僕は中学生の時、映画を観た後で、レコードを買ったと記憶しています。映画で印象に残っているのは、ジョンがリッケンバッカー325でリズムを刻みながらシャウトする姿はもちろんの事、やはりオープニングからのビートルマニアの追っかけシーンの連続、コンサート会場での女子の金切り声と泣き叫ぶ姿です。また4人のビートルズの誠実かつウイットで親しみやすいキャラクターを役柄とはいえ十分に感じられたことは少し意外でした。


又、少し余談ですが、当時はその子の事を全く知らなかったにも関わらず、印象的でよく覚えているシーンがあります。セリフがどうであったかは全く覚えていませんが、ジョンもポールもその子に何かアピールするシーンです。中学生の僕もその子がとても魅力的見えたことはたぶん間違いありません。



後々、その子がパティ―ボイドだということを知りましたが、ビートルマニアの役柄だったということになります。

パティがビートルズと共演の記事

ミューズとして、ジョージの「サムシング」や、クラプトンの「レイラ」の楽曲に影響を与えたパティ―ボイドですが、19歳の少女の頃から、彼らのイマジネーションを掻き立てる何かを持っていたなどとは、当時の彼女の言葉からは想像もつかないほど、普通の女の子だったようです。

「私のお気に入りはジョージよ。なぜかって?よく分からない。ひとつは彼が一番格好いいと思う」

「彼にデートに誘われたときは死にそうになった。私の瞬間的な反応は、『なんてスーパーなんだろう、私は彼がとても好きだ、彼はとても素敵だ』というものだった。そしてすぐに思い当たった。ビートルズの一人が私をデートに誘っているんだ!」

と、どこにでもいる普通のティーンエイジャーだったのでしょう。

少しパティーボイドの話が長くなってしまいましたが、1964年7月7日、ロンドンのピカデリー劇場でのこの映画の試写会が行われました。ビートルズの4人も劇場に現れたのですが、20,000人のティーンエイジャーが群がり、500人の警官が出動し、何十人もの気絶したとのことです。警官の鉄条網を突破するようなような騒ぎだったようです。


ところでこの試写会から約10年後の日本の地方の小さな映画館の出来事です。僕は、この映画を中学2年の時、西梅田にかつてあった大阪の大毎地下劇場で、ビートルズ4本立て(この映画とヘルプとイエローサブマリンとレット一トビー)の一本として観ました。

大阪西梅田「大毎地下劇場」

中学の時のビートルズ好きの仲良し6人で見に行ったと記憶しています。早朝から並んで見たのですが、結果、立ち見が出るほど沢山のお客さんが開場前から入口に並んでいました。そのうち、何かのきっかけで、押し合って早く入ろうとする客たちと警備員が小競り合いになり、入口のガラス扉が粉々に割れてしまい、僕の友達が少しケガをしてしまったのです。

着席して上映後すぐに「ジャ~~ン!🎸 It’s been a hard day’s night~♪」 と始まると同時にビートルマニアに追いかけられるシーンが流れた時、割れたガラスで少し動揺していた鼓動の高まりが一層激しくなった事をどうしても思い出してしまいます。そのことを1974年のビートルマニアと勝手に呼んでいますが、周りの人たちがスクリーンに食らいつくように見ていた姿や「ジョン!」「ポール!」という女の子の声も聞こえ、すでに解散していた1974年の時点でもビートルマニアの名残がこんなところにも少しは、あったようなことを懐かしく思います。

アルバム(レコード)については色々な意味でも映画とセットで考えた方が良いような気がしますが、アルバムの楽曲は、ビートルマニア期の最高傑作だと思いますし、ラバーソウルから始まるコンセプトアルバム比べても、個人的には、今は一番好きなのかもしれません。ジャケットもマーケティング的にも彼らの個性を強調し、かつ少しお茶目さも感じられます。何よりも13曲中ジョンがリードで歌う曲が10曲もあり、ジョンがご機嫌に歌う姿を想像するだけでも僕にはとても嬉しいです。途中で曲を飛ばすことのないアルバムの一つです。

こんな曲もコピーしたなあ…


加えて、当時の時代背景からも、初めてアルバム13曲すべて自演自作で貫いた初めてのアルバムです。単純にそのこと自体が、当時は最大のコンセプトだったと思います。彼らの力強い意志と熱量を感じます。このアルバムの志を刺激を受けて「俺もやってみるか」と立ち上がったミュージシャンの卵たちは、世界に数え切れないほどいたと事は間違いないと思います。

このアルバムをかけるたびに
「どうだい?俺たちが作った曲、いかしてるだろ?!」っていう声が、映画の映像とともに僕の耳には聞こえてきそうです。

そんな声を初めて聴いた映画館を出たあと、僕は6歳の頃からずっと続けてきた野球を14歳でやめることを決心しました。

その日から「バット」の代わり「ギター」を握ることになりました。

少し大げさに書くと・・・
僕が、生きていく上で欠かすことのできない音楽=僕の生涯のライフスタイルのスタートは、「A Hard Day’s Night」の「ジャ~~ン!🎸♪」の音だったことは間違いないと思います。


ゆえに僕が大谷翔平のようになれなかったのは、「ジャ〜〜ン🎸♪」のせいと、勝手に思っています。

あの時もし、「ジャ〜〜ン🎸♪」ではなく、大谷翔平が放つ「カッ〜〜ン⚾️」というホームランの音を聞いていたなら、野球を続けていたかも知れません。

人の行く先は、案外そんな事で決まるのかも知れません。




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