「ダウト」2021.12.19・マチネ(千穐楽)@シアター風姿花伝 観劇感想
全5公演拝見した中でのラスト。千穐楽の観劇感想です。
拝見する度に、戯曲という名の「実」の皮を一枚一枚そっと剥いていっているような感覚を持つのですが、最後に実の真ん中にあった核(種)のようなものに触れられたのか?・・・自分でも確信はないけれど、その工程が楽しい日々でした。
「色眼鏡で見る」という言葉がありますよね。
先入観を持って物事を見ると「事実とは違う」歪んだ見え方をしてしまう、というような意味でしょうか。
劇中ではそのことを「どんなに確信を持っていようと、それは感情であって真実ではない」というような言葉で表現していたかと思います。(うろ覚えなので間違っていたらごめんなさい)
アロイシス校長がフリン神父に対し「確信」を持っていたこと。
それは、色眼鏡で見たものが土台になっているのではないか?
それが最後に、校長が自分自身に抱いてしまった「疑い」ですよね。
実は今回の作品の中で、ずっと(解るような?解らないような?)と思っていた言葉があるんです。こちらです。↓
「疑惑というものは、確信と同じくらい強力で長続きする絆となり得ると、いうことです。」という言葉。リーフレットにも載っていました。
一度抱いた「疑惑」はなかなか消えない。
そういう意味では「確信」と同じくらい強力(な感情)である。
そこまでは、解るんです。
でも、その後の逆説のような「絆となり得る」という意味が・・・?
疑惑が絆となり得る、という言葉が示す意味(本意)がわからない・・・。
私、それまで「疑惑」というものは、相手に向けて抱くものだと思い込んでいたんです。でも、前楽を拝見して、自分の中の確信や信念に「疑い」を持つことも(狂信的だったり排他的にならない為に)同じくらい大事なはずだと気付いて、「疑惑」は相手に対してだけでなく、自分自身に対しても向けられるものではないか?と、ふと思ったんですね。
そう考えた時、相容れない人同士が、各々、自分自身にも「疑惑」を向けて「本当にそうなのか?」と自分の信念や確信を疑う時、互いの間に「絆」となり得る(問題解決の為の)接点が生まれるのではないか?それが、上記の言葉にあった「疑惑」が「長続きする絆となり得る」という言葉の真意ではないのか?と、そう感じたんです。
それこそ、それが戯曲の意図として符合しているのか?疑いをもっていなければいけませんけれど(笑)、答は一つではないかもしれないし、何より、一回一回、拝見する度に新たな気付きや想うことがあって、そうして考え続けることが、私は好きなんですね、多分。
観劇の初回からそういう風に気付ければいいのでしょうが、一枚一枚、皮を剝くようにしか戯曲の中に入っていけないし、しかも感じたことや気付いたことを「言葉に落とす」ことが子供の頃から苦手でして、それを克服したいが為にこうして観劇感想を書いている一面もあるのですけれど、毎度ながら長ったらしい文章でごめんなさい。ちょっとだけでも(あ~、こう感じたんだな)と伝わっていることを神に願います(^^; (無宗教ですが)
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「人」は誰かに真に理解されることで、救われる時がある。
それほど「理解される」ことは人にとって「強い欲求」で
それが満たされない「孤独」は耐え難い苦痛なのかも・・・
自分以外の、しかも相容れないような考えの人に対してであれば尚更、その人を理解することは難しい。難しいけれど、完璧な理解ではなくても、それまで抱いていた自分の中の「確信」や「信念」を疑ってみることで「そういう考えもあるのだろう」と許容する、そのことで、白や黒ではない、グレーの状態での許容が出来るようになるのでしょうか。
そうすることが出来れば、人が日々の中で出会う多くの問題の中で、たとえ全てではなくとも、一部は問題が好転していくかも?しれない。
その為の、自分自身に向ける「疑い」という思考が、この作品に出会った多くの人達(観客)の中に、一つの種として、根付き、育つことを祈りたいと思います。