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観客の不在
芝居は舞台上(および稽古場)だけで創れるわけじゃない。客席に観客が入って、舞台上と客席の間で色々なものが取り交わされる。その先で作品が息づいてくる。そのことは多くの人達が体験してきたことだろうなと思う。
では、今、私が感じている、劇場における「観客の不在」とは何なのか?それを書きたい。
<1> 具体例を挙げてみる
何が「観客の不在」なのか、具体的な例を挙げてみよう。
2年ほど前「建築家とアッシリア皇帝」というフェルナンド・アラバール著の海外戯曲が生田みゆきさん演出で上演された。
公演詳細は、こちら ↓↓
冒頭。
原住民一人のみが住む絶海の孤島に飛行機が爆音と共に不時着する。
音が静まった後、奥から「助けてくださ~い♪」と明るく割と元気に出てきたのが(不時着した)皇帝。それが第一声。
(いやいや、元気やん、助ける必要ないやん、的なw)
その瞬間、この舞台は(表層では)リアルでもシリアスでもない話ですよ~~~、いう演出の生田さんからの(暗号的な)メッセージなんだな、と察して、その馬鹿らしさに瞬間的に笑った。
生田さんは、冒頭の、その皇帝の第一声で(作品の方向性とかニュアンスを)察して反応してくれる観客が居るはず!と信じて、この(演出的な)博打をやって下さったんじゃないかな?と思う。
舞台上と客席の間で色々なものが取り交わされるものを具体的に言えば、こういうものなんだと思う。言外に察するもの。芝居を観てる間、舞台上と客席の間に起こる芝居の反射神経みたいなものだったり、条件反射みたいなものだったり。
当たり前だけど、劇場客席は社会の縮図みたいなもので。
この日が初めての観劇だったり、色々な御客様がいらっしゃる。それぞれが、それぞれに、観たいように自由に観ればいい。
(他の人に迷惑をかけない範囲でね)
(最低限、ストーリーや作品の主旨は理解した上でね)←大切
上記のような、気配や暗号を察して反応するような観客は、トラムだったら10人もいれば十分だ(客席200ちょいなので、丁度5%くらい?)。
この作品の初日、冒頭のこの場面で、どれくらいだったかなぁ・・・、皇帝の第一声でパラッと笑いは起こったので、何人か・・・片手以下くらいかな・・・くらいの「観客」は居たんだと思う。
初日というのは(舞台上もそうなんだろうけど)客席も初日独特の緊張感があって。日本人独特の目立ちたくない精神だったり、恥をかきたくない精神だったりして、舞台に反応しない人達の方が圧倒的に多い。その中で、自分の感性や感覚を疑わず舞台上に反応して返すことを厭わない客層、それらの人達に「観客」という仮称を付けるなら。
建築家とアッシリア皇帝が上演されたのは2022年秋だったから、ワクチン接種がいきわたってきたとは言え、まだまだコロナ禍だった。
コロナ禍の中でも(環境としてリスクが高いと言われていた)劇場に脚を運ぶ人達は、恐らく、結構な演劇好きだったのだと思う。そういう客層の中では「観客」に遭遇することもそれなりにあった。
<2> そして、今
今、2024年の秋。
直近で、海外戯曲の翻訳劇(海外演出家)、小劇場演劇、大型ミュージカル、現代サーカス、台詞劇、新劇・・・etc、自分比、随分と少なくなったけど、それなりに観てる。
そんな中で痛切に感じたのが「観客の不在」だ。
その日、偶然、客席で御一緒になるはずの「観客」が居ない。
舞台上の芝居に対する反応が起こっていかない。
とても静かな客席で、どこまで(作品が)伝わってるのやら?というか、笑っていいものか、笑っちゃいけないのか、躊躇してるのか?、それさえも気配がしない。ひたすら静か。まるで御葬式。そういう作品に何度となく遭遇した。
しかし、そういう状況の客席でも、カーテンコールでは万雷の拍手が起こる。演者さんにも大きな拍手が送られる。何なら御約束のようなスタオペまで。
本気でつまらないと感じていて、反応さえ出来ない(したくない)ような芝居なら、そういう拍手は起こらないと思うし。
作品としてはよくわからなかったけど、観たい俳優さんが生で観れた、という拍手なのか・・・それはそれでいいと思うし、そういう客層も含めた劇場でもあるんだけれど、そうした方々で客席が100%埋まってしまうと、作品が息づかない。
何て説明したらいいのか。
舞台上から考えてみたら、御自分達が届けようとしてる作品に対して無反応(真顔で観てるだけ)だと、一人相撲を取ってるようなもので、稽古場に居るのと一緒というか、客席からの反応があって初めて息づいていく部分が息づかず、作品の届けようがないというか・・・(推測だけど)。
その御葬式のような舞台も、舞台上はそんなに悪くなかったんですよ。まだ届くものは弱いけど、全く届かないわけでもない。反応のしようは在る、そういう状況。
客席の後方で舞台と客席を同時に観てたけど、何だか気の毒でしたね、舞台上が。その日が偶々だったのか?、わからないけど。
<3> そうなってきちゃった訳
いくつか、客席で「観客」に遭遇しなくなった理由を推測してみた。
① チケット代の高騰
偶にイベントとして観劇する客層は別にして、観劇が趣味な客層においても、作品の取捨選択が顕著になってきてる。
ちょっと観てみようかな?くらいの興味だけの作品から選択枝として候補から切り捨てられ、自分が観たいもの(観たい人が観たい役柄で出演してる作品)を観るし、そもそもの観劇回数も減ってらっしゃるんだと思う、チケット代の高騰が原因で。
そうした世情は「観客」な方々にも同様に起こってるのでは?
そういう方々こそ、芝居として面白そうなものを選ぶようになるだろうし、演劇界のトレンドとして押さえておこうかな?くらいの興味の作品は「観なくてもいいか」と絞り込み除外され、結果、「観客」がいない作品が増えた?
② 囲い込みのような気配が重い
どの興行元も、演者さん達も、上記のような状況なので動員が厳しいんだと思う。そういう状況は察するし、興行が綺麗ごとじゃないことも解る。
そうした中で、全体的になんだけど、宣伝時における(演劇媒体のインタビューとか、公式サイトのコメントとか)諸々の言葉の中で(うん???)と思うことが多くなった。
(1)応援して下さい
これは昔からいらっしゃるけど。客席に居るのは御自分のファンだけじゃないのは当たり前で。応援する義理も何も無い。ただ、為すべき役割を果たして作品を届けてくださればいいだけ。
(2)この役に賭けてる(全力で頑張る宣言の系統)
いや、(言葉が)重いって。
頑張っても頑張らなくても、作品をちゃんと届けてくれたら、それでいい。
もう、頼むから、劇場には気軽に脚を運ばせて。
客席では自由に居させて。
人生かけられた作品が届いてきていなくても、先にそう公言されちゃったら人情として、「いや、この作品、どうかな?」って反応し辛いじゃない。
仮に(勇気をもって)正直に感想を述べたとしても、今度はファンの方々からのバッシングが起こったりする(あんなに頑張ってるのに的な・・)。
言葉の真綿で首を絞められているような息苦しさを感じながら客席に居たくない。気が重い。行く前から観たくなくなる。応援してる人達に向けた言葉としては効果があるのかも?しれないけれど、そうじゃない客層にとっては、反って(興味が)引いてしまう悪手だと思う。
御本人様達が頑張るのは何の問題も無い。御自由にどうぞの世界。でも、それはあくまでの自分の中に留めておくことで、特に媒体に載るような時に上記のようなことが起こると、客席に居る人達の思考の自由を奪うことになりかねない。それは、創作側として避けなきゃいけないことでは?
③ 観劇人口が戻ってきた(チケット難の発生)
昨年、5類に変わり、色々なものが緩和されて、コロナ禍に劇場まで脚を運ばなかった客層が劇場に戻ってきた感じもあり。
興行側もコロナ禍で発生した経済的損失を少しでも穴埋めしようと人気俳優さんやアイドル層を起用して集客にはしる。
人気が高い作品はチケット難になり、そういう興行の仕方をしない作品は集客難になりがちで。
興行側も慈善事業じゃないし、興行会社自体が倒産してしまっても困る部分もあるので、上手く住み分け出来たらいいんだけど、観たいなと思った作品がチケット難だったりすると、もう、チケット取りが面倒になって、観なくてもいいか・・・と思う場合もあるんだと思う。
そうすると、今まで舞台を殆ど観ていない(チケット獲得は出来た)客層が多くをしめて、チケ難で諦めちゃった「観客」は居ない、そういう作品では特に御葬式のようでカーテンコールだけ盛大な客席になりがちかも。
そんなとこですかね。
一体、「観客」の人達は、どこにいっちゃったんだろう?
と、言うより、この2~30年間かけて、「観客」な人達は激減してきたんだと思う。母数が激減すれば、自然と遭遇率は下がってくるのも道理で。
芝居の反射神経みたいなものは、それなりに経験を積む中で身についていくものだし、それには注ぎ込んできたチケット代や環境という背景がある。
自身や家族の健康だったり、安定的な収入や余力、観たいと思える作品のランナップ、自由に使える時間・・・そういう条件が揃わないと、なかなか難しい。
「観客」と仮定した客層が不在になって、舞台上と客席のやり取りが起こり難くなって、作品自体が劇場の中で(意図が伝わるという意味において)共有されなくなる状況が続いたら?
そんな劇場の中から、演劇界の未来を引き継ぐ若手なんて生まれてくるんだろうか?
人としては存在しても、そもそも「それは演劇なの?」と思うような業界になっていくかもしれない。
そうなってきた根本は昭和の小劇場ブームに乗った世代や演劇界そのものだと思うけど、そのツケを払う運命なのは今の若手達やそれ以降の世代で、客席に脚を運ぶ人々を信用せず、ただ自分達の創りたいものだけを創って、その弊害には気付かないフリをして責任も取らず、ツケだけ残して去っていく。
私にとっても(本業じゃないし)他人事だから。
客席から出来ることは、こうして言葉に落とすことくらいだから。
それでも、演劇が好きで、長らく劇場と共に生きてきた者として、ちゃんと「演劇」そのものが、未来の子供達に、ちゃんとした姿で残って欲しい。
小劇場演劇が放った強烈な光は光で素晴らしかったのも解るけど、その先で、演劇業界の悪癖(上下関係、権力構造)の中で弊害を無視し続けてきた人達のことを、どんなに才能がある人達であっても、自分の欲の為に演劇業界を利用した今までの行為に関しては、私は心から軽蔑している。
そして、最後には、この想いに行き着く。
丁度、コロナ禍の始まりの頃に書いた記事。
「演劇」は、何の為に、誰の為に、あるのか?
今、演劇を生業にしてる方々ほど、この問題を避けているのか?
問題視されないけれど、自分さえよければいいの?
その感覚が、どうにも、肌に合わない。