参天台五台山記読記009
二日(辛亥)
辰時出船。依潮滿以艫進船。午時到著東茹(【考】茹,雲、閣兩本作茄)山。船頭等下陸參沺(【考】沺即泗字,泗州僧伽。真相大師是也。松、閣、學三本作泗)州大師堂。山頂有堂。以石為四面壁。僧伽和(【考】和字,各本缺,但四本傍注,補之)尚木像數體坐。往還船人常參拜處也。未時乘坏參仕了。山南面上下有二井。水極清淨也。沸湯,行水了。向東南見楊翁山。有人家。翁山西見馬務山。無人家。有三路港。依風向吹,不出船宿。七時行法修之了。經四五六卷了。
ノート:
辰時頃に出帆した船は、満潮のため手漕ぎで進んでいった。午時頃、東茹山(東茄山か)に到着した船頭たちは、山頂にある泗州大師堂へ参拝した。大師堂は石造りの建物で、泗州僧伽の木造坐像が祀られていた。海との関わりを生業とする人々は、ここを通る際に必ず泗州大師に参拝するようになっていた。未時頃には、乗船(乘坏)して大師堂に参拝した。
山の南側には二つの井戸があり、極めてキレイな水を湛えていた。その水を沸かして、久しぶりに行水した。
東茹山の東南方向には、楊翁山があり、家屋も建っていた。翁山の西側には無人島の馬務山があり、そこに三路港がある。
向い風が吹いたため、船出できず、ここで停泊した。七時(後夜)に勤行を修了。(法華)経の四、五、六巻を読み終えた。
泗州僧伽大師は出自などが不明で、人に聞かれると、自ら「何国の何姓」と答えたと『指月録』などに伝えられている。一部の研究者は、その「何国」が現在のキルギスタンではないかと推測している。
ただし、臨淮に浮浪した詩人の李白(たまたまキルギスタン生まれ)は、大師が南天竺(インド)出身であると証言している。
なお、泗州は唐代において、臨淮、漣水、徐城の3県を管轄した州名で、現在の安徽、江蘇の一部に当たる地域である。泗州城は千年にわたって栄えていたが、清の康熙19年(1680年)に洪水によって水没された。最近の研究では、泗州城遺跡の一部が発掘されたようだ。
さらに、この地で泗州僧伽大師は古仏を掘り出し、それを「普光仏」と認定して、香積寺を建立されたと伝えられている。そして中宗皇帝から、寺名を「普光王寺」と下賜された由である。
大師が亡くなると、中宗は勅令で大師の御身体を漆で固めて塔に収めたが、異様な臭気が長安に漂っていた。そのため中宗は御身体を泗州に移すよう命じた。すると奇跡的に香気に変わり、大師の霊力を感じ取ったという。高僧・万回大師は「この方は観音様の応化身」と述べた由。この話は北宋の釈道原著『景徳伝灯録』に記載された。約1世紀半後、僖宗皇帝から大師に「証聖大師」の諡号が贈られた。
やはり、当時の人々は大師が観音の権現として現れたと信じており、深く崇敬していたに違いない。大師がよく楊枝を携えて、常に真言を唱え、彼に礼拝すると厄落としになるという同時代の大詩人李白の記述を見逃せない。
東茹山の正確な所在地は不明だが、舟山群島の一部である可能性が高い。観音信仰の大本山・普陀山に近接しているこの地で、観音の化身とされる泗州僧伽大師を信仰対象として仰いでいたのも何の不思議もない。海上安全を祈願する人々にとって、大師は非常に頼もしい存在だったのではないだろうか。
因みに、中国の江陰博物館に行けば、泗州僧伽大師の舎利を拝むことができるよ。元々、中宗皇帝の勅令により、臨淮に泗州大師を祀る寺塔が建てられたが、後世になって火事で寺塔が壊れてしまった。その後、泗州大師の真身は、荼毗に付され、数十個の舎利として保管された。宋の時代に、その舎利は江陰の悟空寺に寄付され、地宮に納められた。2003年12月に、この地宮が発掘され、大師の舎利らしきものが発見された。