参天台五台山記読記003
十八日(戊戌)
天晴。依無順風不出船。七時行法如例修了。經六七八卷。
十九日(己亥)
天晴。寅時東北順風大吹。先乘坏出見埼。波體宜由來告。即以艫(【考】艫,宜作艣,下同)進船。卯時上帆亂聲擊鼓出船。爰東風切扇。波濤高猛。心神迷惑。不修行法。心中念佛。隨波上下。船亦轉動。波打上坏。上人澀損。(坏戴大船上,坏高五尺。海上至大船上六尺。)敢不足言。予終日不食。聖秀。心賢。長明不覺醉臥。餘人頗宜。予倚懸大袋。終日竟夜辛苦。五箇年間以不臥為勤。今望(【考】望,閣本注云望恐至。案與臨字同意)此時。殆可退轉。(【考】轉下諸本有也字今據原本)
ノート:
三月十五日に乗船して、天候に恵まれず、4日間も待たされたが、十九日にようやく転機が訪れてきた。東北の風が吹くと、日本から中国へ向かう航路にとって順風となる。当時の条件を考慮すると、和船は順風の時にしか航路に出られないとされ、一方で唐船は竜骨(キール)や釘榫構造などを取り入れた頑丈な大型海船に進化し、横風などにも強く、安全性が大幅に向上した。当時の技術では、唐船は自分たちが決めた方向に自由に大海原を渡航できると言われていた。成尋らが唐船を利用した理由も、唐船の高い信頼性が一因であることを見逃してはならない。しかし、宋の船頭たちは順風を待つことを選んだ。彼らは神々にも熱心に祈りを捧げた。遣唐船の事故率が高いことを考えると、宋の船頭たちが慎重に行動することも理解できるだろう。
関係者が風向きが変わるのを見て、まず見崎に出て、波の様子から判断して、そろそろ出発できると判断した。寅の時は午前3時から5時の間なので、現代の人間である私にとってはかなり早起きしなければならないと感心してしまう。そこで、櫂(かい)を使って船を進めることにした。卯の時(午前5時から7時)には帆を立て、太鼓を叩きながら船を出す。迅速に作業する「水上人」の仕事ぶりに感心する。
やはり、東方面からの風によって荒波が立ち、乗り物酔いがひどくなった。成尋も出家して54年、61歳になっているだけあり、精神的に不安を感じながら、通常の日課である修行を行うことができない。ただ、黙々と念仏を唱え、無事を祈る。うねる荒波が船を揺さぶり、また船の上部にある「坏」と呼ばれる構造にも影響を与える。乗り物酔いがひどく、成尋は一日中食事を摂ることもできず、夜遅くまでつらい経験をする。以前、成尋は5年間「不倒單(ふとうどん)」と呼ばれる寝ずに修行する厳しい訓練を行ってきたが、現在の状況ではその精神状態を維持することができず、習慣が潰れてしまう可能性がある。「これでは退転するではないか」と作者は内心で自己を呵責し、その姿勢が浮かび上がる。同行している3人の仲間も乗り物酔いで起き上がることができなくなってしまった。
廿日(庚子)
天晴。飛帆馳船。雲濤遮眼。只見渺渺海。不見本國山島。午時比(【考】比,諸本作北,今據原本)過高麗國耽羅山,予頗宜,少食了。三人重醉同昨日。唐人中二人醉臥。申時少雨下。入夜不晴。不見星宿。只任風馳船。不知方角。由唐人所申。終夜雨氣不散。只以非大雨為悅。聞風浪聲。猶如鳴雷。
ノート:
翌日も大海原を急駛中。故郷が見えなくなり、ますます寂しく感じることだろう。昼ごろ、朝鮮半島の東南方向から遠く離れた耽羅(たんら)を通り過ぎた。当時の技術から見ると、かなりの進展があったと思われる。また、目的地は明州向けの南路北線に沿って進んでいると思われる。同行している3人は相変わらず乗り物酔いがひどく、中国人のうち2人が重症。船は相変わらず激しく揺れているだろうが、成尋は慣れてきて少し食事をとった。
夕方には小雨が降り、それ以降は星が見えないほど曇ってきた。北斗星や島などの目印がないため、進む方向が分からず、人々がだいぶ困った。大雨に見舞われなければまだましだが。
廿一日(辛丑)
風吹如故。雨氣不散。辰時髣髴見日光。即知方角。知風不改。午時天晴。少有乾風。船人騷動。祈神卜之。艮風出來。予心中不動。念五臺山文殊。并一萬菩薩天台石橋五百羅漢。念誦數萬遍。戌時始念不動尊呪一萬遍。丑時六千遍了。有吉夢。寅時一萬遍滿了。有好夢。
ノート:
また、二十一日になると、相変わらず風と曇りが続いている。少し日差しが見えるため、方向が分かるようになり、それだけでありがたい。昼からは晴天になり、船の中ではみんなが興奮する。一行が艮風、つまり東北風を祈り、より早く目的地に到着することを願っているが、成尋だけは全く動かず、ただ五台山の文殊菩薩や一万菩薩、そして天台山石橋五百羅漢を観想し、その名号を数万回唱えた。また、戌時(午後7時〜9時)から初めて不動尊の呪文を1万回唱えた。丑時(午前1時〜3時)には6千回、寅時(午前3時〜5時)には1万回を完了したところ、縁起の良い夢を見た。寝ずに修行と言っても、ちゃんと休息も取れているかなと思う。夢の内容はここでは書かれていないが、菩薩が金身の姿で行者を慰めるようなことも考えられる。
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