大学に進学する意味
先日とある方とお話しする機会があったのですが(とはいえほとんどはいわゆるビジネス上のお話で、それほど面白い内容ではありません)、大学で教鞭を振るっていたことがある、という話が出ていて少し興味があったため、その方のプロフィールをネットで探しておりました。長年にわたってなかなかにすごい業績のある方ではありましたが、どうやら大学は出ておられないということで、大学の教壇に立つのに大学を卒業している必要はないんだな、と少し驚きました。
大学の先生というのは基本的に研究者で、実は教員免許を持っている必要がありません。したがって、「大学で教える資格」というのはあくまで、その大学が「この人に是非教壇に立っていただき学生諸君を導いてほしい」ということを認めたという事実だけ、ということになります。とはいえほとんどの先生は何らかの研究者で、すなわち大学や大学院で学び、学会で自らの研究成果を発表し、周囲に認められた、という経歴があるのが普通ではあります。ただし、長年何かしらの仕事で際立った成果のあるような方であれば、先生として呼ばれることはままあるようです。高度な教育というのは端的に、専門家や研究者から話を聞き、学生本人が自ら学ぶ、ということなのだと思います。
逆にいうと、大学で教鞭を取ることができるだけの人材には大学に行かなくてもなりうる、ということでもあります。
翻って、昨今の大学無償化(あの第三子について云々…とかいうやつです)なんかの話題が出ると、決まって「大学は義務教育ではないのだから、無償化などと甘やかす必要はない、中学や高校を出て働けばよいのでは」というような意見が出ることがままあります。
大学を出ていない人が大学で教壇に立つ、という事実は、この意見を補強しているかのようにも見えます。
私はこの考え方に対しては是とは思っていません。大学に進む能力や意欲がある人たちは、育った環境の経済的な事情や周囲の意見とは関係なく、どんどん大学に進んで学ぶ機会を得られるべきだと思いますし、そのために大学の無償化というのは第三子がいれば云々、みたいなしみったれたこと言ってないでどんどん進めるべきだと考えます。
例えば将来進みたい仕事が決まっていて、それに対しては大学という場所が必ずしも必要ない、早く仕事をすることで実務上のスキルを向上させたい、という人たちが無理に大学に進む必要があるとまでは思いません。ただ一方で、多くの仕事については、大学教育が労働生産性に影響することが示されています。また、いわゆるFランなどと揶揄されるような大学で、中学や高校の学び直しのようなことをして「学士です」と名乗るのはおかしいのでは、というような意見も世の中にはあるようですが、それであっても学んだ学生にとってはそれまでできなかったことができるようになるわけで、学ぶ価値というのはあるのではないか、と思うわけです。
今の四十代以上の人なんかだとまだ高卒で社会に出た人たちも一定以上の比率で、むしろマジョリティですらありますから、大学進学に対していささか否定的なことを口にするというのはご自身の人生を認めたい、ということにもつながっているのかな、とは思います。俺は高卒でも立派に生きてきた、周りの大学を出たやつは対して役に立たない、だから俺の生き方こそが正しい。それはそれで一つの見解だとは思います。
一方、私たち無産階級(自身が経営者として一定の資本を持っている人たち以外は、総じて無産階級です)にとっては、より高い収入を得て安定した生活基盤を築くために、高度な教育をうけ職業選択の可能性を広げる、ということが選択肢に上がるのは、至極当然の判断ではあります。
実のところ、私自身が高卒で働いたわけではないですし、またこれはある種の必然として、大学を出て仕事をするようになると、周りも似たようなキャリアの人たちばかりになりますので、「高卒で働くこと」については私はよくわかっていません。現に高校を卒業して社会に出た何人かの知人は、親の仕事を継ぎ、あるいは幾つかのキャリアを経て会社を経営し、あるいは高度に専門的な職人仕事をして成功していることを知っていますが、彼らの生き方というのが高卒としての仕事のスタンダードなのか、というのは少々判断が難しいところです。
したがって、社会で一角の職業につき、自らの生活基盤を築いていく、ということについて、高卒で十分かどうか、ということについては私としては判断することができません。
一方で、大学を出ることに価値があるかどうか、ということについては、あるのだ、ということについては「あるのだ」と強く主張しておこうと思います。
医者や弁護士、あるいは教師のような、その職業の資格を得るために一定の教育が必要な職業であればまずその必要性については理解されやすいところですが、特に文系学問については「いったいそれは何の役に立つのか」と言われることがあります。
大学で学ぶことは、一つは「知識そのもの」ですが、実は知識そのものについては最大の価値があるものではありません。知識を得ることは大切ですが、そのほとんどは大概文書化されて世間に公開されているものです。従って、たいていのことについては「本を読めばそんなことは書いてある」ということでしかありません。
では何が大事なのか、というと、一つは「思考のフレームワーク」、もう一つは「主張が正しいことを示すためのプロセス」だろう、と考えています。
これらが何を示すのか、ということについては筆を改めたいと思いますが、要はものの考え方とそれを正しく主張する方法、ということです。世の中で、物事が正しいと認められるためには、相応の手順があります。そして、社会で私たちが職業としてやっていることのかなりの部分は、「私たちの主張は正しい」ということを示すことです。
それは「商品の魅力」であるかもしれないし、「安全性を評価した結果」かもしれないし、「この道路を何百億かけて新たに建設することの正当性」かもしれません。そして、それらを正しく示し、正しく理解してもらい、あるいは議論の中でよりよい方向性を導き出すための手続きを行う、ということが、大人がやっていることだ、と私は認識しています。
あるいは人によっては、それらを学問の場で学ぶことを必要とせず、しっかり身につけているタイプの人たちもいるかもしれませんし、別の形で学んだ方が効率的にできる、という方もいるかもしれません。
しかしながら、学校教育という枠組みの中で、大学という到達点でそれを鍛え、社会の中で役立てていくということが、否定されるべきことではないと私は考えています。
※さて、この文章は書いた後しばらく寝かせていたものですが、2024年6月、とあるアーティストのMVについて、歴史や差別に対する考慮の不足が指摘されて公開が停止されるという事件が発生しました。
Twitter(X)などでは、「文系的な知性の軽視」という問題提起がなされています。実情についてはあまりよくわかっていませんが、仮にそのような状況であったとすれば、知性を軽視したことが多額の損失を生み出したわけで、「文系的な知性」というのが経済活動にとって重要であることの一つの証左でもあるのかな、と思います。