中国大陸製「エセ広東語」歌謡に学ぶ正しい「カントポップ」の作り方(2):短母音と入声と「咬字」
中国大陸の非広東語話者によって作られ、歌われる「エセ広東語」歌謡。
それを「エセ」たらしめている要素を分析し、そこから反対に正しいとされる「カントポップ」の要件を考えようという企画の第二弾。
前回は〈笑纳〉というSNS上でのヒットソングを題材に、広東語歌謡における声調とメロディの一致(「協音」)を考察した。
今回は〈笑纳〉と同じくらい中国大陸のSNSで大きな話題を呼んだらしい「エセ広東語」ヒット歌謡〈不该用情〉を取り上げたい。
〈不该用情〉(2020)
この曲は、2020年、说理哥という歌手によって最初に歌われたようだ。ワンフレーズだけが広東語だった〈笑纳〉とは異なり、歌全体が広東語で歌われている。
なかなか良くできた80年代、90年代のカントポップ・バラード風楽曲に仕上がっていると思う。四大天王あたりが歌っていたとしても違和感がないんじゃなかろうか。いろんなコメントを見ていると中国大陸では、もともと張學友が歌っていた歌だと誤解していた人もいるようだ。
実際に劉德華も大陸の番組か何かでこの歌をカバーして歌ったらしい(しかも持ち歌である〈一起走過的日子〉とのメドレー形式で)。
プロのカントポップ歌手にも歌えてしまうわけで、〈笑纳〉とは違って「協音」もだいたいクリアされている。
〈笑纳〉は歌詞を付け直していた亮声openもこの歌はそのままでカバーしている。
作詞・作曲の点では、広東語/カントポップのネイティヴが聞いてもおおむね「合格」なのだろう。ただ表面的な曲調を真似るだけでなく、しっかりと作詞の技法までコピーしており、なかなかハイクオリティなカントポップのパロディだと言えると思う。
この曲が「エセ広東語」の歌として話題になってしまった原因は、楽曲自体ではなく、あるカバー版にある。
「莫叫姐姐」という網紅が2021年5月に発表したバージョンの発音があまりにもめちゃくちゃだったのだ。
莫叫姐姐によるとんでもない発音のカバー
サビ(00:47〜)の歌い出しからして「也許(jaa heoi)=ヤーホイ」がなぜか「jaa ngoi=ヤーンゴイ」と歌われている。その後も細かな発音ミスを指摘していけばキリがない。中国大陸でも「これはひどい」と話題になったらしい。たぶん非広東語話者が聞いてもわかるレベルの「エセ広東語」だ。
なんで「也許」が「ヤーンゴイ」になってしまうのか、一応理由を考えてみることはできる。鼻にかかった「ng」の発音(日本でいうガ行鼻濁音)で始まる語は普通話には存在しないが、広東語ではこの発音は頻出する。たとえば「私」を意味する「我」の発音も「ngo(ンゴー)」だ。
さらにカントポップの歌唱法的には、本来では頭子音のつかない語も「ng-」をつけて発音されることが多い。たとえば「愛」という字は、本当は「oi」(オーイ)が歴史的に正しい発音*だと思われるが、カントポップではほぼ例外なく「ngoi」(ンゴーイ)と歌われている。
(→例:陳奕迅〈K歌之王〉のサビ)
というわけで、カントポップを聴いていると「ンゴ」という鼻にかかった子音が目立つ(特にその音を持たない普通話の話者にとって)わけで、この「莫叫姐姐」のおかしな広東語の発音も「広東語の歌といえば「ンゴ」だ」というイメージからくる「過剰修正」(ハイパーコレクション)と思われる。
そのほかの発音のミスは普通話の発音からの影響(つまり母語干渉)として説明できそうである。たとえば「該」(goi)が「gai」(普通話ではgāi)になっていたり「有」(jau)が「jou」(普通話ではyǒu)になっていたり。
こんな感じで「エセ広東語」歌謡に見られる非標準的発音は「どうしてこうなった」を真面目に考えてみると案外おもしろい。
より「正しい」広東語の発音に近いカバー
この〈不该用情〉には、広東語母語話者(と思われる歌手)が歌った標準的な発音での録音も存在する。たとえば広西チワン族自治区出身の胜屿が歌った以下のバージョン。広西は歴史的に広東語文化の影響力が強い地域で、彼も広東語話者なのだろうと思う。子音や母音の発音に大きな違和感を感じるところは(少なくとも私の耳で聞いた限り)ない。
でもこのバージョンにも一つだけ、カントポップの歌唱上の規範に関わる点で気になる部分がある。
それは「短母音」の処理方法だ。
広東語における長母音と短母音
広東語には、母音の長さで意味を区別する言葉がある。
たとえば、
「サーム」(saam)と母音を伸ばして発音すると「三」
「サムッ」(sam)と母音を短く切って発音すると「心」
などと全く別の意味になる。これは普通話にはない特徴である。
(「a」以外の母音に関しては、口語の上ではあんまり厳密に区別されてないんじゃないかという話もあるけど、いったん細かい事は置いておこう)
個人的なイメージでは、上の例で言えば「サーム」と母音にアクセントをつけて長めに発音するのが長母音、「サムー」のように母音の後ろにくる鼻音(m、n、ng)にアクセントをつけるのが短母音、という風に考えている。
さて広東語にはこういう母音の長短という特徴があるので、カントポップでは歌う時に母音を自由に伸ばしてはいけないということになる。これは前回とりあげた声調と並んで、広東語歌謡において旋律(や拍子)と歌詞との関係を規定する音韻上の規範の一つとなる。
たとえばこの〈不该用情〉のサビは「-ing」で脚韻を踏んでいるが、これは本来は短母音なので母音部分を短く発音しなければならない。
胜屿は「ツェーン」「デェーン」と伸ばして発音しているが、伝統的なカントポップの規範的には母音は短くして「ツェンー」「デェンー」と「ン」の音で伸ばすのが「正しい」とされる発音だろうと思う。
実際に別の歌手(広東省珠海出身の大笨)はそのように歌っている。
上にリンクを貼った亮声openが歌っている動画でも同様だった。「-ing」の母音は短く切って鼻音で伸ばす、というのが広東語での歌唱における規範的ルールの一つなのだろう。
香港のカントポップの事例を見てみよう。同じく「-ing」で韻を踏む林家謙〈一人之境〉(2020)のサビは基本的にしっかり短く切られている。
ただし終盤のサビの「聽著那共鳴聲(sing) 是種心理回應(jing)」は母音が長く伸ばして歌われている。「聲」は口語では「seng」と長母音でも発音されるのであまり違和感はないと思う。「應」は音程にこぶしのような変化をつけて歌われているので、どうしても母音を短く切れないからだろう。
「-ing」は短く切るというのは前回の「協音」ほどの絶対的なルールではなく、香港でも歌手によって曲によってまちまちな気はする。
カントポップ特有のリズムを作る「入声」
母音を歌手が自由に伸ばすことができない、というルールに関連して、カントポップにとって重要な広東語の音韻的特徴がもう一つある。
中国の古典的な用語で「入声」と呼ばれる、音節末にはっきりと発音しない子音(内破音)をつける発音だ。
アルファベット化すると「-t」「-p」「-k」と表され、それぞれ「t」「p」「k」を発音する時の舌の形で息の流れを止める。日本語で例えると小さい「ッ」で発音をやめるような感じの音、というとなんとなく伝わるだろうか。
「発音を止める」「音を詰まらせる」こと自体によって構成される発音であるため、どうやってもそれ以上に音を伸ばすことはできない。
歌詞に「短母音+入声」という組み合わせで発音される文字が出てくると、そこで声を一時停止しなければならなくなる。つまり入声が出てくる部分は、音符に「スタッカート」が付いたような、短く音を切る歌い方になる。
たとえば陳奕迅の名曲〈富士山下〉(2006年)の冒頭部分を例にとると、以下のように太字で示した漢字が「入声」である。
「入声」が出てくると、それ以上音を伸ばせなくなってしまうので、通常香港の作詞家はフレーズの末尾にこの音の漢字を当てるのを避ける。短母音や入声も作詞家が歌詞をつける際に考慮すべきルールの一つなのである。
余談:容祖兒の〈痛愛〉はサビが「-uk」という短母音+入声という発音で韻を踏む、珍しい歌。本来は「オッ」と母音を短く切らなければならない発音だけど、流石に歌いづらいからか「オーッ」と伸ばして歌われている。
エセポイント:「入声」の発音がアマい
「入声」は広東語をはじめ中国語系言語のいくつかには残っているが、現在標準語となっている普通話では完全に消滅している。
なので「エセ広東語」歌謡の歌い手たちの中には、これをあまりはっきり発音できていない者も少なくない。カントポップで言えば歌詞中で多用される基本的な助詞、たとえば「的 dik」や「不 bat」も入声なので、ちゃんと発音できていないとかなり目立つ。
たとえば上で紹介した莫叫姐姐は「的」を「デイ」と歌っているのですごく変な感じがする(正しい発音はカタカナにするとデッに近い)。
また前回取り上げた花僮の〈笑纳〉でいうと、歌詞中の「接」(zip)が入声だ。これを正しく発音するには本来「p」を発音する時のように両唇を閉じた状態で音を止めなければならないが、花僮がこの歌を歌う映像を見ると、明らかにこの部分で口が開いたままで、「zi(ジー)」と発音している。
(この映像が口パクっぽいのは気にしないでおこう。この発音を歌唱時にちゃんと意識していたら口パクでも両唇は閉じるだろう)
広東語話者が歌う「エセ広東語」歌謡とオリジナル版とを聴き比べてみると、入声の発音の違いがよくわかると思う。
たとえば前回の冒頭に取り上げた王赫野〈大风吹〉のサビ頭のフレーズ「就让这 大风吹 大风吹 一直吹」だと最後の「一直」(jat zik;ヤッゼッ)の部分が、短く切らなければならない入声の言葉になる。
以下の広東省深圳出身の刘惜君による歌唱では、この部分がオリジナル以上にはっきりとスタッカート的に切られて歌われているのがわかると思う。
ちなみにこの歌も声調とメロディがあまり合っていない。特に「大风吹」(daai6 fung1 ceoi1)の部分は、声調的には「低(6声)・高(1声)・高(1声)」とならないといけないのに、メロディが「高(ラ)・低(ソ)・高(ラ)」と逆向き(ラ→ソ)に動いているのが気になる。
刘惜君が歌う上の動画ではこの部分のメロディーが「ソ・ラ・ラ」に改変されている(01:18〜)。声調と違和感なく合わせるための工夫だろう。
マレーシア華人の張棟樑が歌ったバージョンでも、メロディが同じように改変されて歌われていた。広東語歌謡の「協音」規範的にはこちらのバージョンの方が明らかに気持ちが良い。
カントポップ歌手の要件としての「咬字」
広東語の入声は、口語上は厳密に発音されないことも増えている。香港の若年層の中には、「-t」「-p」「-k」の3種類も厳密に区別せず、曖昧に発音する話者も少なくない。
でもカントポップの歌唱の場合は、この「入声」はしっかりはっきり区別して発音すべし、という規範が強く存在している。
カントポップでは、口語ではほぼ消失した発音規範を守って発音することが求められるのである。
この記事の最初の方に言及した「ng-」も同様だ。今日の香港の口語では「我」は「オー(o)」と発音しても何の問題もなく通じるし、実際に多くの人はそのように発音しているけど、歌を歌う時にはハッキリ「ンゴー(ngo)」と発音することが求められる。
こういう旧来の規範からズレた発音は、だらしない発音という意味の「懶音」と呼ばれている。もちろん、話者が個人的にだらしないからそうしゃべるというよりは、香港の広東語に生じている自然な音変化だろうとは思う。だらしなくても真面目でも、カジュアルな場面ではそのように話す話者の方が今では圧倒的に多いはずだ。
ともかく「懶音」で話す傾向の強い若年層にとって、カントポップの歌唱のために発音を矯正する作業はなかなか大変らしい。たとえばNancy Kwaiという2000年生まれの歌手は「英語と広東語の歌どっち(を歌うの)が好き?」というファンからの質問に対して、「広東語の歌は歌うのが難しいから気楽に歌える英語の歌の方が好き」と答えている。
もちろん彼女は広東語を母語としており、この動画の質疑応答でもずっと広東語で喋っている。でも「録音の過程になるとできないことが多い」「広東語の発音はとても難しい」と彼女は言う。彼女が例としてあげるのは単語の語尾の発音(つまり入声のことだろう)と「我」の子音「ng-」である。
規範に厳密に従って言葉を一字一字丁寧に発音をすることを香港では「咬字」と呼ぶ。この「咬字」は香港の人々が一般にカントポップの歌手に求める技能の一つらしい。香港の新人歌手に対する評価やコメントを見ていると、声質や声量、ピッチに関する言及のほかに「咬字をもっとがんばれ」という日本や英語圏ではあまり見ない(気がする)発音に関する批判が散見される。
口語上は区別されなくなった音韻上の規範をはっきりと区別することが、
カントポップの歌手に求められる基本的な歌唱技術の一つなのである。
広東語での歌唱は母語話者にとっても難しいのだから、非母語話者によるいい加減な発音の「エセ広東語」がすぐに見抜かれてしまうのも当然だろう。