I'll Be Waiting: カントポップ以前 【香港カントポップ概論:前史】
【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】前史
"Cantonese"(広東語)と”Pop”を足した「カントポップ」(Cantopop)という英単語がはじめて使われたのは1978年、香港在住のスリランカ系音楽ジャーナリスト、ハンス・エバートがアメリカの『ビルボード』誌の記事で用いたのが最初ということになっている。
ちなみに「J-Pop」という言葉は、1988年、洋楽専門で放送を行なっていたラジオ局J-Waveが自社で流せる洋楽っぽい日本のポップスを呼ぶために作った名称らしく、「日本人が外国人の視点を借りて考えた自称」(『Jポップとは何か』岩波新書、17頁)という若干いびつな再帰構造をもつ呼称だったようだが、その点「カントポップ」はしっかりとアメリカの雑誌で用いられた、れっきとした英単語として誕生した。
この「カントポップ」にスッキリ対応する中国語/広東語の単語はない。少し硬く文語的な「粤語流行曲」(粤語は広東語の別名)という言い方もあるけど、口語では単に「廣東歌」(つまり広東の歌)と言えばいわゆるカントポップを指す。
広東語の歌、というのはおそらく広東語の歴史と同じくらい古いものだけれども、1978年になってようやく「カントポップ」という名称が生まれたのには単純な理由がある。つまり、その頃ようやく広東語の歌が「ポップ」になったからだ。
逆に言えば、それまで広東語の歌は全くポップじゃなかった。それは例えば民謡や、伝統劇・粤劇の楽曲を短めにアレンジしたもので、とにかく若者がハマるようなものではなかったらしい。
映画の主題歌などの流行曲もなかったわけではなかった。例えば、1954年の『檳城艷』は貴重な初期広東語ヒット曲として度々言及されている。あのテレサ・テンも、1980年発表の最初の広東語アルバム『勢不兩立』でこの曲をカバーしていたりする。
「檳城」とはすなわちペナンのことで、南国の情景が艶やかに歌われている(日本からすると香港は十分に南国なのだが、香港ではさらに南の東南アジアが”魅惑の南国”的な描き方をされるのだ)。
でも映画楽曲には、モダン都市上海由来の北京語=マンダリン・ポップスという大きなライバルがいた。共産党支配を逃れたエンタメ関係者の移住もあり上海趣味の濃厚だった1950年代から1960年代の香港で圧倒的に「ポップ」だったのは広東語曲ではなく、「時代曲」と呼ばれたマンダリン歌謡の方だったらしい。
戦前・戦中のマンダリン歌謡の影響が強かったこの時代を、作詞家ジェームズ・ウォンは、李香蘭の代表曲から『夜來香時代』と呼んでいる。
香港Universal(環球)が、傘下のEMIなどの曲も含め、香港ポップスの歴史を総括する6枚組のコンピを出しているのだけど、その1枚目、1950年〜1970年編に収録されている中国語曲は全て北京語で歌われている。
ここに収録されている坂本九『上を向いて歩こう』(1963)のカバーも、英語と北京語で歌われている(2分11秒あたりから北京語)。きっとこういう曲を中国語でカバーするには広東語ではなく北京語じゃなきゃダメだったんだろうと思う。
この時代のマンダリン歌謡について、個人的には全く聞かないので詳しくないけど、戦後香港における「時代曲」の流行については『東アジア流行歌アワー』(貴志俊彦著、岩波現代全書)という本が第6章で詳しくとりあげている。
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北京語と並んでポップだったのは、英語によるバンド・ミュージックだった。ビートルズの初来日は1966年だけど、香港にはそれよりも2年早い1964年に来ている。
この香港英字紙の記事には、ビートルズ来港前後の様子がまとめられている。日本でも香港でもパイオニアたちは「俺たちはビートルズが来る前からやっていた」といいたがるようだけれども、やはりビートルズの影響は大きかったようで、香港でも60年代後半に英語バンドブームが起きる。
例えばThe Lotusの『I'll Be Waiting』はまさに初期ビートルズ風の良曲で、この頃の香港のビートルズ風音楽がかなり高いレベルにあったことが想像できる。
女性グループもいた。動画はThe Chopsticksという二人組の、ビートルズ『The Fool on the Hill』のカバー。
この時期の英語曲を今耳にすることはあまりないけど、The Reynettesの『Kowloon, Hong Kong』(1966)は、キャッチーだからかたまに替え歌とかでも使われてたりする。先述のユニバーサルのコンピにも収録されている。
イントロのいかにもなオリエンタリスティックな旋律といい、「カオルーン、カオルン、ホンコン、ウィー・ライク・ホンコン」「カムヒア、カムヒア、リキシャ・ボーイ」と歌うだけのアホみたいな歌詞といいストレートな植民地的情緒にあふれていてなんか笑ってしまう。まんまスージー・ウォンの世界だ。
Kowloon, Kowloon, Hong Kong
(九龍、九龍、香港)
We like Hong Kong, that's the place for you
(香港大好き あなたもおいで)
Walking down the street full of joy
(通りを歩けば 喜びあふれる)
Come here come here, rickshaw boy
(こっちにおいでよ リキシャ・ボーイ)
Take me down the street
(通りの先まで連れてって)
新界やっぱ無視されてるなとか(香港島と九龍、じゃなくて香港の九龍って意味な気もするが)、楽しく歩いてんならリキシャに乗るなよとか、ツッコミどころたっぷりなのに不思議な中毒性があるからポップスってすごいね。
60年代香港バンドブームについてまとめた『港式西洋風』(李信佳、中華書局、2016年)によれば、The Reynettesはフィリピン系の兄弟姉妹5人によって結成されたバンドだそうだ(178-179)。
英語期の香港音楽シーンではフィリピン系ミュージシャンの活躍も無視できない。今の香港ではフィリピン人といえば出稼ぎメイドという印象だけど、このころから香港に住むフィリピン系香港人も一定数存在する。
この『Kowloon, Hong Kong』では英語に混じって「恭喜發財,利是逗來」(あけましておめでとう、お年玉ちょうだい)とか広東語のフレーズも散りばめられてるから、広東語ポップスの走りとも言えるかもしれない。植民地的視点からとはいえ香港のローカルなシーンを描こうとしているという点では”本土”(=ローカル)ソングの走りでもあるのかも。
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香港での英語バンドブームは1970年代以降のカントポップの興隆にともない衰退してしまったけれども、香港ポップ音楽史に重要な転換をもたらした。初期カントポップを担う人材はこのブームの中から生まれたからだ。
というよりむしろ、最先端だった英語ポップス歌手の手(というか声)を借りてはじめて時代遅れの広東語歌謡が「カントポップ」として生まれ変わることができたと言ったほうが正しいかもしれない。
最初の「カントポップ」とされる2曲を歌うことになるのはThe Lotusのハンサムなフロントマン許冠傑(サム・ホイ)と、The Chopsticks出身の英中ハーフの女性シンガー仙杜拉(サンドラ)だった。
→ 浪子心聲: "歌神"サム・ホイとカントポップの誕生
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