再見Puppy Love:ダニー・チャンと青春 【香港カントポップ概論:1980年代①】
【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】
1980年代編: ”今夜星光燦爛" スターたちの時代 ①
1980年代に入ると、もう広東語でポップスを歌うことの意味を問われることはなくなり、映画・テレビ・レコード会社が結託したメディアミックス戦略によりヒットソングを量産する体制も生まれた。
社会も1970年代の急速な経済成長を経て生活水準が全体的に向上していた。中国大陸の改革開放政策により大陸への工場移転もはじまり、ポスト工業化社会へと舵を切り始めていた。1980年10月には大陸からの不法入境者に居住権を与えるシステムが廃止され、移民・難民社会としての香港は終わりをつげた。
そんな世相を反映してか、1980年代の香港歌謡界は、きらびやかなアイドル歌手の時代を迎える。
サム・ホイやロマン・タムといった40年代生まれの「戦後世代」のスターたちは1980年段階ですでに30代になっていたし、移民第一世代にあたる彼らには独特の「陰」もあった。
サムは生まれてすぐに香港に移住し、家族とともにダイヤモンド・ヒル(鑽石山)に住んだ。美しい名前とは裏腹に、戦後山肌に難民たちのバラック(=木屋)が立ち並ぶ「木屋區」のあった地域のひとつである。サムの1983年のアルバム『新的開始』(新たなスタート)には『木屋區』という曲が収録されている。彼のかつてのアイドルのであったエルヴィス・プレスリーの『In the Ghetto』(1968)のカバーだ。
木屋区のとある母子家庭に新しい赤ん坊が祝福されることもなく生まれてくる。やがて成長した彼は貧乏を脱出しようと悪事に手を染め、仲間と銀行強盗を計画して、警察に撃たれて命を落としてしまう。我が子の死体を抱きかかえて母親が涙を流す一方で、木屋区の別の家庭ではまた新しい赤ん坊が産声をあげていた。
この歌詞の内容はエルヴィスの原曲の忠実な翻案だけど、「木屋區」「蘇蝦仔」(赤ん坊)、「大檔」(賭博場)といった広東語の用語が散りばめられて香港的な色彩が加えられている。サムの耳には、シカゴのゲットーにおける貧困の再生産を歌ったエルヴィスの歌が、戦後香港の難民たちの境遇と重なってきこえたのだろう。
ロマン・タムの方は、サムとは違い、17歳の時に単身で香港に移住している。広西の裕福な家庭に生まれた彼は、2歳の時に家族とともに広州に移住し、そこで成長した。1962年、17歳の時に病気の父親のための薬を買いに行くことを理由に香港への往復旅行を申請して電車で来港し、そのまま戻らなかった。香港移住後は、学歴がなかったため雑用をしたり、夜間学校で英語を学びながら親戚に紹介された銀行ではたらいたりしたらしい。その後、ビートルズにはまってバンドをはじめ、オーディションで見出されて歌手活動を開始する。
(冗談めかして香港最初のラップとも呼ばれる1983年の『激光中』。つまり香港の『俺ら東京さ行ぐだ』だ。だいぶ派手だが。だいたい「俺に触れたらヤケドするぜ」的なことが歌われている)
ステージでの派手な立ち振舞から「舞台貴族」と呼ばれた彼の過去はいろいろ謎に包まれた部分もあって、生年すら1945年だったり1950年だったり、資料によってまちまちである。香港への渡航についても多くの難民がしたように大陸から海を泳いで渡ってきたのだ、という噂もまことしやかにささやかれていたという(『獅子山下的傳奇』明報周刊、2010年)。
つまりサムもロマンも移住にともなう苦難の過去を持っていて、移民世代が共感しやすいストーリーをもったスターだったと言えるかもしれない。
しかし1980年代に入り、もはや香港は難民社会ではなくなった。同じ時期、カンフー映画において、悲哀を背負った華人ヒーローのブルース・リーに変わって植民地支配にも自らのルーツにもなんの憂いも持たないように見えるコメディ・スターのジャッキー・チェンが登場したように、楽壇にも爽やかな、香港生まれの、新しいスターが必要だった。
そんな時代にうってつけのアイドルが、陳百強(ダニー・チャン)だったようだ。
1958年に香港に生まれたダニーは、幼い頃からピアノに親しみ、1977年ヤマハ・エレクトーン・コンテストで優勝、さらに別の流行曲創作コンテストでも3位の好成績をおさめて歌手契約を勝ち取った。
1979年、アルバム『First Love』でデビュー。A面に英語、B面に広東語の曲が収録されていた。B面から自作曲の『眼淚為你流』がヒットする。
眼淚在心裡流
(心の中で涙が流れる)
此際怎麼開口
(こんな時 口もきけなくて)
前事在心裡飄浮
(心の中に過去の事が浮かぶ)
情意令人太難受
(愛がこんなに辛いなんて)
アルバムのジャケットには受話器を耳にあてるダニーの写真が使われていて、この曲の冒頭にもダイヤル音と「喂?」「喂?」(もしもし)という少女とダニーの掛け合いが収録されている。さすがにもう電話は新しい道具でもなかっただろうけど、電話で女の子と話をするのが当時の「今ドキのぼっちゃん」風演出だったんだろうか。
フレッシュな印象でのプロモーションの一環だろうか、翌年発表の『幾分鐘的約會』(数分のデート)では、開通したばかりの地下鉄が舞台になっている。
毎朝地下鉄で一緒になる女の子に恋をして、こっそり「数分間のデート」を楽しむ歌だ。上の動画の映像はこの曲が挿入歌に使われた1981年の映画『失業生』から(ダニーと一緒に後の香港の大スターが出演しているのだけど、彼の時代はまだ来ていない)。
ダニーはこの『失業生』と前年の『喝采』で映画主演を果たしている。どちらもどちらもボンボンの男の子が音楽の道を志すストーリーで、要するにダニー本人のイメージに合わせてつくられた彼のためのアイドル映画だった。アルバムの成功と合わせてこれらの映画のヒットで、ダニーはアイドルとして大ブレイクした。
と、こんなところがダニー・チャンのブレイクまでの軌跡なのだけど、いま彼の写真や映像をみても、正直なところ「スーパーアイドル」とか「白馬の王子」とか言われてもあまりピンとこない。たしかに清潔感はあるけど顔立ちはあまり派手ではなく、髪型も普通で、「ハンサム」ではあるけど「イケメン」ではない感じ。歌もキレイな声だけど良くも悪くも素直な歌い方で、いまいち派手さにかける。後の香港のスターたちと比べると、あまりにも地味なのだ。
それなのに彼の人気は今も圧倒的で、ほとんど同じ曲が収録された何が違うのかほとんどわからないようなベスト盤が今でも次々と発売されている。店舗や乗り物のBGMとして彼の曲が流れればおばちゃまが(おじちゃまも)うっとり聴き入っているし、序文で書いたように彼の曲をメニューの名前にしたカフェすらある。
だからきっと彼は表面的な派手さではない何か、当時の香港の聴衆がもとめた何かをもっていたはずで、それが上で書いたような新しい時代にふさわしい真っ直ぐで純朴な「爽やかさ」だったんじゃないかと思う。香港のスターたちの生涯をまとめたある本はダニーについて「青春。青春。永遠の青春。凝縮された青春。ダニー・チャンは、香港の経済発展期がもたらした柔らかく上品なものをもとめる嗜好と清潔で汚れのないものをもとめる美学の中にあった」と書いている(『獅子山下的傳奇』)。とにかく青春、なのだ。
ダニーの初期のヒット曲を手がけた鄭國江の爽やかで前向きな歌詞は、そんな彼の青春のイメージに見事に呼応している。特に1980年の『喝采』(ちあきなおみの名曲とは関係ない)は、ダニー自身が書いたありがちだけど美しいメロディとも相まって、カントポップ史上最高の青春賛歌となっている。
似朝陽正初升
(これから昇る朝陽のように)
你要自信有光明前路
(君も明るい前路を信じてほしい)
願知生命誠可貴
(どうか命の尊さを知ることが)
能為你鼓舞
(君へのエールになるように)
以真誠我祝福你
(僕は心から 祝福するよ)
會踏上那光明前路
(明るい前路へ 踏み出す君を)
願將一腔熱誠給你
(胸いっぱいの情熱を送ろう)
常為你鼓舞
(変わらぬ君へのエールとして)
そんな彼の変わらぬ「青春」のイメージは、もしかしたら彼が35歳の若さでこの世を去ってしまったこととも関係しているのかもしれない。1992年5月、ダニーは酒を飲んだあと昏睡状態に陥って病院に緊急搬送された。服用していた薬との飲み合わせによる副作用だとか、あるいは意図的に服毒自殺を図ったものだとか、いろいろな類推がなされたようだけど、とにかく彼はそのまま帰ってこなかった。17ヶ月眠り続けたのち1993年10月25日に死亡する。
晩年の写真をみても、30代とは思えないほど爽やかな風貌のままだ。年をとることなく旅立った彼は、今も純朴な「Danny仔」(ダニーくん)のイメージのままで記憶される永遠の青春なのだろう。
早逝したことで却って、彼は良き時代の香港のアイコンとして懐かしまれているともいえるかもしれない。まるで人がとっくに失われた自分の青春をすっかり美化して振り返るように。きっとだからこそ死後四半世紀以上たった今も、というよりむしろ香港がすっかりかつてとは変わってしまった今だからこそ、かつてダニー自身が歌ったように、みんな「それでも君が好き」(『偏偏喜歡你』)なのだろう。
愁緒揮不去 苦悶散不去
(悲しみは消えず 苦しみはなくならない)
為何我心一片空虛
(この心にぽっかり開いた穴は なんだろう)
感情已失去 一切都失去
(もう感情も消え なにもかも消えたのに)
滿腔恨愁不可消除
(この胸のむなしさは消せない)
為何你的嘴裡總是那一句
(なぜ君が口するのが いつもその言葉なのか)
為何我的心不會死
(なぜ僕の心は死んでしまわないのか)
明白到愛失去 一切都失對
(愛は消えたとわかっている 何もかもおかしい)
我又為何偏偏喜歡你
(でもなぜか僕は それでも君が好きなんだ)
===========
ダニーの遺した曲は、今でもよく映画などで使われている。個人的に特に印象深かったのは2015年の映画『五個孩子的校長』での使われかただった。
廃校寸前の幼稚園を救うためわずか4500香港ドル(6万円)の月給で校長に就任した女性の実話に基づく映画で、かなり序盤からダニーの『喝采』のメロディーがBGMとして使われる。
誰もが知る名曲で、メロディーだけで若者の前路を祝福するあの歌詞が思い浮かぶからこその演出だろうと思う。貧困の中それぞれの「夢」を持って生きる子供たちのお涙頂戴の物語とも呼応していて、非常に泣かせる仕掛けだ。で、終盤実際に歌詞付きで歌われるシーンになると、もう完全に涙腺が崩壊する(飛行機で見たので大変恥ずかしかった)。素敵な映画なので泣く準備をよくしてから見てみてほしい。
カントポップのスターは数多くいるけど、ダニーの曲以上にこの手の学校ものにハマる歌はないと思う。
(ちなみにこの映画では、他にも鄭國江が作った童謡『小太陽』や、同様に彼が訳詞を担当した『蛍の光』の広東語版『友誼萬歲』も使われていて、鄭國江の歌を存分に堪能できる映画でもある)
==============
飛躍舞台:躍動するポップスターたち
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?