中国大陸製「エセ広東語」歌謡に学ぶ正しい「カントポップ」の作り方 : 旋律と声調を合わせよう(「協音」)
わたしは香港の文化を研究している。中でも「カントポップ」と呼ばれる香港の広東語ポップスについても論文を書いたり、このnoteで解説をしたりしている。
専門はあくまで香港なので、「一国二制度」の壁で隔てられた向こう側、中国大陸のことはあまり知らない。けど最近、偶然中国大陸で作られた「カントポップ」っぽい広東語の歌を複数耳にした。
たとえばこんな感じの歌だ。歌い出しは普通話(標準中国語)だけど、サビは突然広東語になる。
吕口口〈你最近好吗?〉(2021)
あるいは同じくサビのみ広東語で歌われるこんな歌。
王赫野〈大风吹〉(2021)
「エセ広東語」歌謡の解剖
さてこの2曲、どちらも歌い手はおそらく広東語母語話者ではない(発音を聞けばすぐわかる)。出身地を調べても、広東語圏からは大きく離れた東北部生まれだったりする。
なぜ広東語話者でない人が広東語の歌を作るのか、ちょっと興味が湧いた。
調べてみると、このタイプの歌は中国大陸では「塑料粤語歌」と呼ばれているらしいことを知った。日本語で言えば「エセ広東語」歌謡である。
中国大陸の広東語母語話者が、時に怒り狂い、時に笑い転げながら、エセ広東語歌謡のおかしなポイントを解説している動画もいくつも見た。
私は広東語の母語話者ではないし、「エセ広東語」歌謡の是非を論じるつもりもない。ただ曲がりなりにも広東語を学習し、カントポップを聴いてきた人間としては、広東語話者が違和感を感じるポイントに共感もできる。
でもそこでふと考えた。
「エセ広東語」歌謡の「間違っている」部分を考察していけば、反対に「正しい」カントポップの姿が浮かび上がってくるのではないか。
つまり、既存の広東語ポピュラー音楽が守るべきと考えられている、けれどもあまりにも当然過ぎて明確には語られないような暗黙の規範を改めて考えてみるきっかけになるのではないか。
そこで、このnoteでは、「エセ広東語歌謡」を反面教師にして、カントポップの「正しい作り方」を考えてみたいと思う。
* * *
まず「エセ広東語」歌謡業界のヒットソングと言ってもいい〈笑納〉を取り上げたい。サビの歌い出しの「撑伞接落花 看那西风骑瘦马」というワンフレーズが広東語で歌われている(他は普通話)。
花僮〈笑纳〉(2020)
この部分、とりあえず普通話ではなく広東語で歌われていることはわかるのだけど、発音が大変不正確で「sai」と発音すべき「西」が「si」、「sau」と発音すべき「瘦」が「sou」と発音されている(それぞれ普通話での発音が「xī」「shòu」なのでそれとの混同、つまり母語干渉だろう)。
この歌は中国大陸のSNS(抖音)で大変バズり、カバーするインフルエンサー(网红)が続出したらしく、検索すればそんな感じのショート動画がたくさん見つかる(みんな似たようなちょっと不思議な発音で歌っている)。
では、この歌を「正しい」広東語で歌うと、どうなるのだろう。
たとえば広東省出身でカントポップのカバー動画も多く投稿している歌手「亮声open」が歌っているバージョンを見てみよう。
亮声openはこの曲の全体に広東語の歌詞を付け直しているが、原曲の「撑伞接落花……」に当たる部分は、
他の広東語話者によるカバーでも同じだ。オリジナルの歌詞を「正しい発音」で歌うのではなく、基本的に別の歌詞を付け直してカバーしている。
なぜかというと「元の歌詞ではどうがんばっても正しい広東語では歌えない」からだ。
エセポイント「声調とメロディが合っていない」
ここに「エセ広東語歌謡」が「エセ」である最大のポイントがある。
非広東語話者がつけた歌詞は、メロディと「声調」がズレているから気持ち悪くて歌えないのだ。
広東語は「声調言語」であり、同じ発音でも音の高低で言葉の意味が変わってしまう。なので広東語で歌を作る場合(少なくとも香港のカントポップの場合)は、メロディの高低にあった声調を持つ言葉を選んで歌詞を作る。
この作業を「協音」(口語では「啱音」)といい、カントポップの曲作りの基本のキである。メロディと声調が「合っていない」(「唔啱音」)歌は、広東語母語話者にとっては大変気持ちが悪いらしい。
協音を怠っている広東語のポップスは、たとえば英語の歌詞で韻をまったく踏んでいないようなもの、あるいは日本の例で言えば五七五七七をまったく無視したポエムを「短歌」と称しているようなもので、一発で「パチモン」であることがバレてしまう。
普通話にも「四声」と呼ばれる声調はあるが、歌づくりの際には通常無視される。私は言語学や音楽学の専門家ではないので、その詳しい理由はわからないが、広東語の声調はより複雑で6種類あり、より細かな音程の変化が、言葉の意味の変化に直結してしまうからではないかと思う。
普通話の四声は音節の途中で音を上げたり、下げたり、反対に上げ下げせず真っ直ぐ伸ばしたりして区別されるので、単純な音程の高さ・低さで区別しているわけではない(たぶん)が、広東語はそうではない。
広東語の声調6種類の音程を簡単に図にすると以下のようになる。
1声、3声、6声、4声はいずれもまっすぐ伸ばす音であり、単純に音の高さ、低さでのみ区別されている。
つまり広東語話者は音の高さ、低さを言葉の意味と直結させて認識している。だからメロディに言葉をのせたときにも、自然と何らかの「声調」がついているように聞こえてしまい、それが本来の声調とずれていると、とんでもなく気持ち悪いのだろう。
だから言葉の本来の音程と旋律上の音程を合わせる「協音」という特有の作業が求められるのだ。
ちなみに音節の途中で音を上げて(上昇調で)発音される2声と5声が歌詞上どう処理されるかというと、これにはさまざまな説があるようである。歌手によっては少ししゃくり上げるように歌って上昇感を出したりすることもあるようだが、基本的に作詞者は「終着点の高さ」のみを重視して作詞することが多いらしい。つまり2声は1声と、5声は3声と同じものとして扱われる。
ここでも以下の分析には基本的にその「終着点」説を採用しておく。
〈笑纳〉の二つの歌詞とメロディの比較
さて問題の〈笑纳〉において、歌詞の声調とメロディがどんなふうにずれているのか。そして「修正版」の歌詞では両者がどのように揃えられているかを見てみよう。
「撑伞接落花 看那西风骑瘦马」の部分のメロディー(拍子は無視した簡易的なもの)と上記の五線譜方式で示した歌詞の声調を並べてみよう。
一方で亮声openによる「正しい」広東語Ver.はこうなっている。
両者を見比べてみると、亮声open版の方が、旋律(緑のバー)と声調(青い線)の上下が大まかに一致していることがわかると思う。
特に後半「看那西风/为你沏好」の部分、メロディが「ミソラシ」と上昇していく部分を見ると(下図)、オリジナル版(上)が上がったり下がったりぐちゃぐちゃなのに対して、亮声open版(下)は最も低い4声からはじまり5声、3声、2声としっかり少しずつ高さが上がる言葉が選ばれている。
また最後に「シ→ミ」と大幅に下がる部分にも、亮声open版は最も高い1声から最も低い4声に落ちる「杯茶」という歌詞を当てており、動きが一致している。一方オリジナル版の「瘦马」は十分に下がっていない。
広東語の歌詞とは、本来こうやって、メロディに合わせて違和感のない声調の言葉を丁寧に選んでいく作業になる。用意された旋律に対して、声調のルールにピッタリ当てまる言葉をパズルのように探しながら埋め込んでいくので、この作業は「填詞」(詞を埋め込む/はめ込む)と呼ばれる。
もちろん簡単な作業ではないので、香港のカントポップ業界では、作詞もとい「填詞」は専業作詞家(填詞人)が担う「プロのお仕事」というイメージが強いのである(つまり自分で歌詞を自作する歌手は極めて少ない)。
(ホンモノの)カントポップと声調
香港のカントポップでどれくらいこの「協音」が意識されているかというと、基本的にヒット曲のほとんどが当然の作法として抑えていると考えてもいいと思う。
香港カントポップのメロディと声調の関係性について大規模な分析を行ったブリティッシュ・コロンビア大学の修士論文でも、それを示すデータが提出されていた。
その論文では、2000年から2020年までの21年間で、香港の主要メディアの音楽賞(4大音楽賞)を制覇した楽曲を年5曲ずつ選んだ105曲の歌詞で「コーパス」(→GitHubで公開中)を作り、声調とメロディの関連について定量的分析を行なっていたが、それによるとかなりの割合でメロディの上がり下がりと声調の上がり下がりが一致していたという。
もう少し具体的に言うと、メロディの動き(上がる、下がる、同じ音のまま)と声調の動き(上がる、下がる、同じ音のまま)の3×3の組み合わせパターンそれぞれの出現率が以下の通りになったらしい。
これによるとメロディと声調の上がり下がりが完全に一致している例(青)が8割以上と大部分を占めている。上下するメロディに対して同一の高さの声調が当てられる(緑)ことは15%ほどあるらしいが、同じ高さの音が続く時に声調が上下する言葉が当てられたり(黄)、あるいはメロディと反対方向に声調が上下する言葉が当てられる(赤)ことはほとんどないことがわかる。
メロディと声調を合わせる強い規範が存在していることがわかるだろう。
実際にカントポップのヒット曲から具体例を2つみてみよう。
まずは往年のヒット曲、李克勤〈紅日〉の歌い出しのメロディと声調を図にしてみる。
かなりきれいにメロディと上下が一致していることがわかる。上の論文の分類で言えばすべて青色のカテゴリーに収まっている。一番低く下がる部分にしっかり声調的にも一番低くなる4声が当てられているのが気持ちがいい。
次にまったく違う雰囲気の楽曲としてアイドルグループAs Oneの〈Candy Ball〉のサビの歌詞を見てみよう。
こちらも、おおまかに一致しているが、一箇所だけメロディが1音下がっている部分に同じ6声が連続で当てられている例がある。これは上記の研究でいうと、完全な一致ではないもののある程度許容されている緑のカテゴリーになる。
たった2曲だけだが、「ホンモノ」のカントポップの歌詞で、しっかりと「協音」が意識されていることがわかってもらえただろう。
エセ広東語歌謡と声調
一方で「協音」の習慣がない普通話音楽界隈の人々が作る「広東語」の歌は、〈笑纳〉をはじめ、こうした工夫が見られないので広東語話者が聞けば一発でパチモンだとわかる。
わかりやすい失敗例を見ておこう。刘煜霄という歌手による〈再爱也没有意义〉(2022年)という歌の歌い出し(一行ごとに広東語と普通話で順繰りに歌われる変な歌だ)を同じように分析するとこうなる。
「已经」(ji5ging1)という声調的には音が上がらなければならない歌詞が下降調のメロディに当てられ、反対の動きになっている(オレンジ)のがとても気持ち悪い。これはプロのカントポップの作詞家であれば絶対にしない歌詞の当て方だ。
他にも上の論文によれば通常のカントポップでは同様に滅多に出てこない、同一の高さの連続する音に異なる声調の言葉を当てている例(黄色)も複数見られる。たぶん普通話の歌を作る時と同じように、声調のことは全く意識せずに作られているのだろう。
「エセ広東語」の歌の全部が声調を無視しているわけではなく「協音」の努力が多少は見られるものもある。
例えば冒頭で言及した吕口口〈你最近好吗〉のサビ末尾のフレーズは、比較的メロディと声調が揃っている。
少なくともこの部分を見る限り、明らかに声調をある程度意識して歌詞がつけられていると思う。特に最後の「的微笑」の3音はなかなか自然な一致ぶりで、聞いていても普通のカントポップっぽい心地良さがある。
この歌は歌い手の発音の面ではだいぶ違和感があるけれども、曲作りの面ではかなりがんばってカントポップを勉強して作られているのだと思う。
「エセ広東語」で歌われているのは間違いないが「エセ・カントポップ」とまで言うのはちょっと酷かもしれない。
そもそも香港で広東語の歌を出す歌手の中には、台湾出身者や大陸の非広東語圏出身者もいる。そういう歌手たちの発音も決して標準的ではないが、カントポップ業界のプロの作詞家が声調の合った歌詞をつけているので「カントポップの歌」として問題なく成立している。
「エセ広東語」の歌について解説している広東語話者の動画を見ても「問題は発音ではなく”協音”だ」という意見をよく見かける。「エセ広東語」の歌の最大の違和感は声調とメロディの不一致なのだ。
結論:「協音」はカントポップのアイデンティティだ
「中国語の歌では声調は無視される」と大雑把に語られてしまうこともあるけど、それは普通話や台湾華語で歌われる「マンドポップ」の話だ。
カントポップでは声調とメロディを一致させる「協音」という規範が存在する。そして広東語話者にとってこの「協音」は、おそらく彼らの言語感覚とも密接に結びついた重要なこだわりポイントなのである。
つまり「協音」とは、ホンモノのカントポップのアイデンティティだ、と言ってもいいだろう。それなしにはカントポップは成立しないのだ。
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