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「世界はあなたに関係ない」:2022年1月〜3月の香港カントポップ(3) 【注目の作詞家編】

香港のポップスを楽しむなら、歌手だけでなく作詞家をフォローした方がいい。広東語での作詞は職人芸で、専業作詞家の役割が大きいからだ。昨今の自分で作曲をするシンガーソングライターはかなり増えており、専業作曲家の役割は今後小さくなっていくかもしれない。でも作詞まで自分で行う歌手はまだまだ少ない。

香港のSpotifyで、2022年1月〜3月の期間に再生数が多かった広東語曲上位100曲の作詞者と作曲者を調べてみたところ、歌い手が作曲者として単独でクレジットされているものは27曲、他の作曲者と連名でクレジットされているものを足すと41曲あったが、作詞の場合は自作はわずか9曲、共作を入れても15曲だった。

バンドでも、インディーズ時代には広東語よりは作詞が楽な英語の歌詞を自作していたりするけど、大抵は本格的にデビューするにあたって、作詞家を雇うようになる。メジャーな香港のポップスの裏には、ほぼ必ずプロの作詞家がいるのだ。

だからどんな作詞家がついているかで、そのアーティストが良くも悪くもどれくらい「セルアウト」しているかも測ることもできる。

この記事では特に活躍の目立つ作詞家を何名か取り上げ、彼らが手掛けた2022年の新曲を見ていこう。

ちなみに先述のSpotifyの再生数トップ100曲のうち、作詞家ごとの作詞担当曲数をグラフにまとめると以下の通りになる。

(1)まだまだ強い「二人のワイマン」

返還後の香港の音楽業界は、長く林夕(本名梁偉文)と黃偉文の「二人の偉文(ワイマン)」の時代だったと言われる。ラジオ局・商業電台の音楽賞「叱咤」の作詞家大賞の1997年からの2020年の受賞者をまとめると以下のようになる。

かつてほど圧倒的ではないものの、この二人は今も大きな影響力を持っている。

黃偉文はヒット曲編で扱った2021年の『Master Class』をはじめ、今も精力的に人気アーティストに歌詞提供を行い、ヒットを連発している。今年の元日に授賞式が開催された「叱咤」でも2021年度の作詞家大賞を受賞した。

2022年に入ってからも、ERRORの『愛情值日生』や、鄭欣宜(Joyce Cheng)の『豐乳肥臀』など、ユーモラスな歌詞を発表している。

MIRRORの弟分的存在であるERRORの『愛情值日生』(恋の当番制)は、4人の男性が当番制のように日替わりで一人の女性を愛する風変わりな歌になっている。

Monday 由他討好你(Mondayには 彼が君の機嫌を取り)
Tuesday 換一位呵你(Tuesdayは 別の一人に優しくされる)
我是你 (我是你)(僕は君の(僕は君の))
禮拜幾 (禮拜幾)(何曜日(何曜日))
幾多隻船 仍共你一起(何股であったって 君と一緒だ)
Wednesday 由小三serve你(Wednesdayは 三号がお相手)
Thursday 留返比小四(Thursdayには 四号の出番)
邊個係Sunday(誰がSundayだ?)
誰又配獨佔你(誰も君を独占なんてできないから)
才與幾個他分你(何人かの「彼」と分け合うのさ)

作詞:黃偉文

ERRORは楽曲の面では、意図的にMIRROR以上にレトロ感、キッチュ感を強調しているようで、この曲も懐かしい歌謡曲のような雰囲気だ。MVにも90年代から00年代の懐かしのアイテムが多数用いられている。私はERRORの4人と完全に同世代なので(育った場所は違えど)なんとも懐かしい気持ちになる。この世代にとってアイドルだった人気女性歌手の謝安琪と、その夫で歌手の張繼聰も出演している。

『豐乳肥臀』は、昨年度の叱咤で女性歌手大賞と視聴者部門の女性歌手賞の二冠に輝いた鄭欣宜の新曲で「現代版の絶世の美を定義するなら、豊乳と細腰だけじゃダメでしょ」と歌うボディポジティブ的な潮流を感じさせる歌詞になっている。「人の体つきを笑うあんたは…きっとどこか体の一部が極小なのね」などの軽妙なユーモアもあちこちに混ぜられていて、黃偉文の流石の技を感じる。


林夕の方は、近年は仕事をセーブ気味ではあるものの、まだまだ注目度が高く、曲を出せば大きく話題になる。今年に入ってからは、2020年〜2021年の出世頭である林家謙(テレンス・ラム)に『某種老朋友』(ある種の旧友)を提供している。

作曲は澤日生で、林夕/澤日生の二人はテレンスのデビュー曲『下一位前度』の作詞作曲を手掛けており、また名曲『富士山下』を生み出したタッグでもある。

この曲はリリース直後から急速に再生数を伸ばし、トップ3にも入ったが、歌い手のテレンス自身への注目度に加えて、このタッグが手掛けた楽曲だったことも相当に大きいだろうと思う。

リリースされた直後から歌詞を解題する論考も次々と登場しており、「林夕の作品」への注目度の高さが窺える。そうした論考の一つによれば「期限切れの友人」への思いをうたうこの歌は、一説にはかつての林夕の盟友である歌手の楊千嬅(ミリアム・ヨン)に当てたものではないかとも推測されている。

林夕は他にも許廷鏗(Alfred Hui)が3月にリリースした『沒有人可以為你的幸福負責』などの作詞も手掛けている。


(2)小克はやっぱりおもしろい


返還前から活動するベテランである「二人のワイマン」の下の世代には、00年代以降から作詞をするようになった、陳詠謙、林若寧、小克らの中堅組がいる。

ミュージシャン出身で、黃偉文の門下である陳詠謙は、2020年の姜濤の『蒙著嘴說愛你』、2021年のMCの『反對無效』などのヒットソングを手がけているが、2022年にはまだ作詞曲はリリースされていない。

林若寧は、林夕の弟子で、ペンネームの「林若寧」の名字も彼からもらったものである。『Dear My Friend,』などMIRROR関連の楽曲も多く手掛けている。なお香港では作詞家はレーベルやテレビ局の枠組みに関係なく活動するようで、彼はViuTVのライバルであるTVB系のAfter Classのデビュー曲の作詞も手掛けている。

特にユニバーサル所属のシンガーソングライターAGAとは関係が深く、彼女の楽曲の大半は林若寧が作詞している。


今年に入ってからの小克は、既にヒット曲編で紹介した『鏡中鏡』以外に、MIRRORのJerの新曲『MM7』の作詞もしている。

「MM7」は、香港で使われている漢字入力法「倉頡」の簡易版「速成」で、「正」という文字を入力するときのコードである。倉頡と速成は漢字を形から入力する入力法で、横棒は「M」のキーに割り振られている。速成では漢字の最初と最後のパーツだけを入力する方法なので、「正」は一番上と下の横棒をとって「MM」となる。たくさん出てくる変換候補の中から、7番目に出てくる候補が
「正」なので「MM7」ということになる。
(倉頡については下の記事で解説してるから詳しくはそちらを見てね)

Jerの配信へのチャット欄で「正」(広東語で「いいね」、「最高!」のような意味)と入力しようとしたファンが焦って「mm7」のままで投稿することが多くあり、Jerのファンたちの間で流行語になったという。要するにある種のファンサービス的なタイトルである。

曲調はこれまでのJerのしっとりとした楽曲とは一味違う、レトロなバンドサウンドを基調にした明るいナンバーで、非常にかっこいい。まさにとても「MM7」。

作曲はインディーズバンドのThe Hertzが担当した。小克はこのThe Hertzの今年2月の新曲『Now Here, Man!』の作詞も手がけている。

こちらもMM7同様のレトロなサウンドで、フィルムカメラをはじめとする古風なアイテムがMVにも用いられている(歌詞にもフィルムが登場し、フィルムが記録する人生の一コマが云々、という歌詞になっていると思う)。COLLARの『Never-never Land』にせよ、Sabrina&Gigi姉妹や、ERRORの楽曲にせよ、こういうレトロ感は今の香港の大きなトレンドだと思う。シティポップブーム含め、国際的な(少なくともアジア的な)潮流にも重なるものなんだろうけど。

なおタイトルはビートルズの楽曲『Nowhere Man』(邦題:ひとりぼっちのあいつ)をもじったもので、半角スペースを一箇所に入れるだけで「どこにも居場所がなくなってしまった」と嘆く人物に対して「(過去や未来を悩むより)今ここだろ!」と呼びかけるという言葉に変わるという言葉遊びになっている。MM7にせよ、タイトルだけでこれだけ語れてしまうから、やっぱり小克はおもしろい。


(3)新世代の作詞家:Oscar、T-Rexx、鍾說、王樂儀

昨今の香港の音楽業界で歌手たちの世代交代が進んでいるように、作詞家の中にも、1990年代生まれの若い世代もたくさん現れはじめている。

Oscar

たとえば前編で取り上げた1990年生まれのOscarもその一人だ。商業電台のDJをしながら作詞家業をしている。Oscarはイアンの『留一天與你喘息』の他にも、COLLARの『Call My Name!』や、3月にリリースされたMIRRORの江𤒹生(AK)と王智德(アルトン)が歌う、ラップを基調としたド派手なパーティチューン『REBOUND』も彼の作詞であり(ラップ部分の歌詞はアルトンが作っている)、静かな歌からやかましい歌まで、非常に幅広い楽曲に歌詞提供をしている。


T-Rexx

他にはT-Rexxという1991年生まれの作詞家も、ここのところ活躍が目立っている。Jerの『狂人日記』やジェレミーの『半』を作曲したシンガーソングライターの吳林峰に誘われて作詞をするようになったらしく、彼の2019年の楽曲『你是萊特』で作詞家デビューした。以降は吳林峰が作曲したMIRRORの2020年のグループ曲『One And All』も作詞している。2021年にはMIRRORのイーダンとアンソン・ローが歌った香港版おっさんずラブの主題歌『突如其來的心跳感覺』、MCの『Loser』などのヒット曲の作詞も手掛けた。

今年に入ってからリリースされた楽曲としては、ERRORの肥仔(Fatboy)のソロ曲『Dear Mama』や、4月1日にリリースされたばかりのイーダンのソロ曲『Elevator』が彼の作詞である。

* * *

そのほか、これまで圧倒的に男性中心だった香港作詞業界にはめずらしい、新世代の女性作詞家も複数登場している。ここでは、特に今年に入ってからの活躍が目立つ鍾說と王樂儀を取り上げたい。

鍾說

鍾說は俳優業としても活動する兼業作詞家で『狂舞派3』『殺出個黃昏』『梅艷芳』などの映画にも出演している。俳優としての出演時には「鍾雪」名義を用いている(広東語では発音はどちらも同じ)。

(俳優としてはテレンスの『難道喜歡處女座 Alter Ego』のMVにも出演している)

作詞家としては、同じ1994年生まれで、大学時代からの知り合いである歌手・陳凱詠(Jace Chan)の楽曲の歌詞をデビュー以来手がけてきた。

2022年に入ってからは更に活躍の幅を広げており、既にロックバンドのToNickの『再見止痛藥』、ワーナー所属の中堅歌手衛蘭の『Little Miss Janice』、シカゴのコンテストに出場するなど国際的な注目も高い若手女性4人組バンドWHIZZの『二話都說』などを手がけている。注目の新人編で紹介したCOLLARの新曲『Never-never Land』、Sabrinaの『剎那的』も鍾說の作詞である(後者はクレジット上はSabrinaとの共作)。

鍾說の歌詞は、口語を大胆に織り交ぜながら、漠然と自己肯定感を高めてくるようなフレーズを散りばめるカジュアルなスタイルのものが多く、なんとなく聞いていて気持ちがいい。

Jaceの2020年の楽曲『天生二品』には「I just wanna daa bin lo」というフレーズが出てくる。鍋を食べることを意味する「打邊爐」(daa bin lou)という広東語を英語と混ぜたもので、いかにも香港の学生が使いそうなインチキ英語だが、とにかく鍋がしたいんだなということが伝わってくる不思議なパワーがある。

上に乗せたSabrinaの『剎那的』にも「快啲」(faai di)=「早くして」、「納懦」(nap no, 納懦)=「ぐずぐずする」、などの口語が織り交ぜられていて、恋に焦る気持ちが表現されている(と思う)。
(作詞の分担は明言されていないけど、英語歌詞の曲に新しく広東語詞をつけたものらしいので、英語部分がSabrina、広東語部分が鍾說なのではないかと思う)

『Never-never Land』の歌詞も、全体の雰囲気はなんとなく支離滅裂な感じもするが、ところどころに「君と私も希少 相変わらずじゃ勿体無い」(你與我也罕有 為何還在照舊)、「不安の中を彷徨っても 私の鼓動はそれでも自由」(縱於不安𥚃漫遊 我的心跳也自由)、「1秒後のことは とやかく言わない/この1秒間 君が善良ならそれでいい」(隔一秒不要講究/這秒你善良就夠)など、ところどころに勇気づけられるようなフレーズが散りばめられていて、楽曲のChill感をうまく演出している気がする。『剎那的』といい『Never-never Land』といい夢想的/妄想的な歌詞を書かせたら、昨今の香港でもナンバーワンだと思う。

カジュアルで独特の軽みがある夢想的な歌詞を得意とするためか、ノイジーで浮遊感のあるドリームポップ風の曲作りをするアーティストの作詞も多く手がけている。張蔓姿(Gigi)の2月の新曲『不言自明』のアレンジを手掛けたCHORとか、商業電台のDJである梁子のソロプロジェクト「before the night ends」とか。

作詞家はサウンド面には関与しないはずなんだけど、作詞家を追いかけていると、こういう風になんとなく得意とする曲調みたいなものも見えてきたりもする。

* * *

王樂儀

王樂儀は、大学でベテラン作詞家・周耀輝の作詞クラスに参加したことがきっかけで作詞家を志したらしい。

1992年生まれの同世代の女性シンガーソングライターである黃妍(Cath Wong)、王嘉儀(Sophia Wong)と長くタッグを組み、歌詞提供をしてきた。
(王樂儀自身の年齢に関する情報は手に入れられなかったが、上の記事ではこの2人と同世代であることが明言されている)

今年に入ってからはMIRRORの人気メンバー、盧瀚霆(アンソン・ロー)の新曲『Mr. Stranger』の作詞も手がけているので、さらに注目されそうだ。
(英語のラップ部分はアンソン・ロー自身の作詞)

作詞の特徴としては、夢見がちな鍾說の歌詞とは正反対に、現実の社会問題を感じさせるような、結構ずっしりくる内容のものが多い。

Cath Wongの『我心中尚未崩壞的部分』(私の心の中のまだ壊れていない部分)では、世界が崩壊していく中で、自分の心を保つ決意が歌われる。

我靠著你優雅的姿態(君の優雅な態度が私の頼みの綱)
世界正崩壞(世界が崩壊していく中)
美麗盡了 就變灰(美しさも尽きて 灰になり)
累了 就變沙(積み重なって 砂になる)
而你能令我不瓦解(君がいるから私は崩れない)
我就算全身有傷(たとえ全身傷だらけでも)
心至少一寸未變壞(心は少なくともまだ全部だめにはなっていない)
狂雨降 寒風吹 尚有你(雨が吹き荒れ 冷たい風が吹いても まだ君がいる)

同じCathの『天光前』(夜が明ける前)では、暗い世界を抜け出すため、夜が明けたらなんとか生きていこうという気持ちを歌っている。

天一光 請你帶上一起擁抱的暖
(夜が明けたら どうか身に纏って 一緒に抱きあった温もりを)
天光多傷痛挫折 亦盡力生存
(日の光は どれほど痛み挫折しても 精一杯生き残る)
留給你飛船 前方有一片茫茫大海
(君に宇宙船を残していこう 目の前に広がる大海を)
祈求能讓你跨越
(どうか乗り越えられるように)

どちらも昨今の香港の暗い社会情勢を強く思わせる歌詞だと思う。前回の特集で言及したCathの『至少有歌』という歌も彼女の作詞である。

今年リリースされた曲としては、昨年SONYからデビューした新人歌手、區子琳(Paula Au)が3月にリリースした新曲『瘟疫在愛蔓延時』(愛が蔓延する時代の疫病)も手がけている。

タイトルは、師匠である周耀輝が達明一派に提供した作詞デビュー作『愛在瘟疫蔓延時』(疫病が蔓延した時代の愛)をもじったものである(ちなみに『愛在…』は元々ガルシア=マルケスの小説『コレラの時代の愛』の中国語訳からタイトルをとっているので、パロディのパロディということになる)。

歌詞はタイトル通り、疫病が蔓延する時代の中でも諦めたくない愛を歌う。

愛似染了絕望 也算某片救藥 (愛が絶望を染めた ある種の救いの薬のように)
(…)
我 撲進巨浪(僕は 巨大な波へと突き進む)
世界沒變好 都想愛 可抵抗 不堪的真相 (世界は良くなっていないけど それでも愛したい 抵抗できる 堪え難い真相に)

MVでは、疫病の感染源として処分されてしまった大好きなウサギを探しにいく女性の姿を描いている。香港では実際にオミクロン株の感染源としてハムスターが大量に処分されてしまったりもしたから、なかなかな政治風刺とも取れる。

歌手のポーラいわく、いい結果にはならないと分かっていてもどうしても諦めきれない恋、みたいな恋愛経験を王樂儀に話したところ、「私の話に彼女自身の想像も加えて『疫病が蔓延した時代の愛』というタイトルになった」らしいのだが、一体どういう想像を加えれば、そのありがちな恋愛話からこの題材が引き出せるのだろう…。これがプロの作詞家ならではの技だろう。


息苦しい時代を生きる糧

鍾說と王樂儀の歌詞のスタイルについて、上では真逆だと述べたが、どちらも理想的とは言い難い世の中で、自分らしさを保とうとする点では共通している。そのアプローチが夢想か抵抗かというだけで、根っこの意識は同じかもしれない。

元来のカントポップの歌詞は、自己嫌悪的でネガティブな内省を扱ったものが主流な印象で、いかに芸術的に自虐できるかが勝負というような雰囲気もあった。

林若寧が作詞した2021年のヒットソング『我不如』はその典型だろう。「僕なんか路上のネズミ以下」「君も僕なんか早く追い出したほうがいい」「僕なんか犬でも飼ってればいいんだ」と、ひたすら自分を卑下する気持ちが歌われる。

そんな中で、自己肯定感を前面に出す新世代の作詞家たちの歌詞は、何か今の香港に求められる新しい価値観を示しているような気がする。

前回の記事で見た『Never-never Land』といい、前々回の記事で見た『留一天與你喘息』といい、あるいはGigiの『一樣』といい、今年に入ってからリリースされたポップソングの多くが、圧力の大きな社会の状況の中で「ほっと一息」つくことを、つまりは「chill」感をテーマとしているように思う。

息苦しい情勢の中で、自分がほっとできる「ネヴァーランド」や「パラダイス」を求めるのは、ある意味ではエゴなのかもしれない。でもきっと、こうした曲が伝えようとしているのは、単なる楽観主義や逃避ではない。そんな時代になんとか生き抜いていくためのある種のサバイバル方法なのではないかと思う。

3月の初旬には、広州出身で香港を拠点に活躍する若手歌手・陳蕾(Panther Chan)が『世界與你無關』(世界はあなたに関係ない)という楽曲をリリースした。オミクロン株の爆発的な流行に加えて、ウクライナでの戦争も始まり、日々世界の重苦しいニュースが溢れていた頃だ。

タイトル通り「世界はあなたに関係ない」と歌う歌だが、もちろん本当に世界から目を背けよと言っているのではなく、世界の全てをひとりで受け止めて今にも潰れてしまいそうになっている人に向けて「全てを背負う必要はない」「あなたはひとりじゃない」と呼びかける内容になっている。歌詞も曲も彼女の自作だ。

世界與你無關(世界はあなたに関係ない)
不必將千噸重擔(負う必要はない 1000トンの重荷を)
全部背負直行當然不簡單(全て背負って行くのは簡単なことではないから)
世界與你無關(世界はあなたに関係ない)
讓我為你分擔(私にも分担させてほしい)
其實你並不孤單(あなたは決してひとりじゃないんだから)
你並不孤單(あなたは決してひとりじゃない)

作詞:陳蕾

「乱世の中のあなたに送る歌……あなたに関係あるのはただあなただけ」と題された公式動画の説明文では、この歌に込められた想いが詳しく解説されている。

ウィルスが恐慌をまねき、
戦争が禍根を作り出して、
人間性が悲痛をもたらす。
莫大な負のエネルギーが生まれつつあり、
徐々に空を侵蝕しているようで、
わたしもあなたも光を見上げることができないでいる。

この感覚を「絶望」と名づけた人がいる。

でも実際には、
人間なんてただ宇宙の微小な塵に過ぎず、
本来は自在に風に乗って軽やかに舞うものだ。
もしこの瞬間、世界に押し潰され、ほっと一息つくこともできないなら、
どうか自分にひとこと、こう言うことを許してあげてほしい。
「世界はあなたに関係ない」

時に自分勝手に過ごし、「ほっと一息」つくことは無駄ではない。それはきっと絶望を避け、なんとか日々を生き続けていくために必要なことなのだ。

ゆっくり好きな歌を聴いて、自分だけの夢の楽園を満喫したって、それはあなたが現実から目を背けていることにはならない。そうして得た活力が、きっと明日からまた息の詰まるような現実に向き合っていく糧になるのだから。

息苦しい時代に「ほっと一息」つくことの大切さを説く香港の歌に、これまで多くの変化に翻弄されながら、いくつもの失望や絶望を乗り越え、なんとかやってきたこの街の人々の底力のようなものを感じてしまうのは、考え過ぎだろうか。

でもその強さは、きっと今の私たちにも必要なものではないかと感じている。


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