一路逆風:G.E.M.と新北進想像 【香港カントポップ概論:2000年代〜⑤】
【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】
2000年代以降編「”還能憑什麽” 凋落後の挑戦」 ⑤
ここまでカントポップの歴史を振り返ってみて、ちょうど10年おきに転換点となる重要な年がやってきているのではないかと思った。
1964年にビートルズが来港して英語バンドブームが起こり、1974年にそのブームから生まれた若い人材が新スタイルの広東語歌謡を世に送り出すことでカントポップが生まれた。1984年にはレスリー・チャンが『Monica』でブレイクし、歌って踊れるスーパーアイドルたちが輝く全盛期の到来を告げた。
その10年後、1994年はフェイ・ウォンがプロダクションから与えられた「王靖雯」をすて本名の「王菲」での再デビューを果たした年だ。以降はカントポップのスター製造システムの限界があらわになってくる。
そして2004年には全盛期カントポップを担った作詞家、ジェームズ・ウォンが死去し、前年のレスリー・チャン、アニタ・ムイの死と共に、ひとつの時代の終わりを強く印象付けた。
そして2014年は言わずと知れた「雨傘運動」の年だ。この年の9月から2ヶ月以上続いたこの運動は、ポピュラー音楽界にも影響を与えた。インディーズ・バンドや謝安琪らローカル派のミュージシャンは続々と応援ソングをリリースし、林夕が詞を手掛け、謝安琪、RubberBand、デニス・ホー、黃耀明(達明一派)らが合唱した『撐起雨傘』(傘を掲げよ)のような大掛かりなテーマソングも作られている。
しかし今回は、それではなく、この年のはじめに起こったもう一つの出来事に注目したい。それは香港社会全体にとっては、雨傘運動と比べるまでもない、あまりにもささやかな出来事ではあったが、現代香港の音楽業界が直面する別種の潮流を表す重要なモーメントだったのではないかと思う。
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2014年1月、大陸のテレビ局・湖南衛視制作の人気リアリティ番組『我是歌手』(私は歌手だ)のシーズン2が放送された。この番組は韓国の同名番組を元にした歌唱コンテスト番組で、中華文化圏の各国から集まるプロの歌手たちが楽曲を披露し、観客からの投票で順位を競うものだ。この期の参加者の中には、一人の香港人歌手もいた。
彼女の名前は鄧紫棋。G.E.M.(ジェム)というステージネームで知られる、1991年生まれの若い歌手だ。番組出演当時はまだ23歳だった。
そして、この番組の観客たちは、きっと彼女のことを知らなかった。
彼女が最初に登場した時、台湾のシンガー張宇(フィル・チャン)が香港新世代の歌手として彼女の名前を読み上げても、観客は怪訝な顔を浮かべるだけで微妙な反応だった。共演者たちも「誰だ?」「誰だ?」と顔を見合わせている。
しかし彼女の歌がはじまると、誰もが息を飲み、最後は拍手が盛大な巻き起こった。
絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーの演出だった。結局、この番組で準優勝に輝いた彼女の名前は大陸をはじめ中華圏中に知れ渡り、現在では欧米メディアが「中国のテイラー・スウィフト」と呼ぶほどのスター歌手になっている。
無名の実力派歌手のサクセス・ストーリーとしてはこれ以上ないほど完璧なものだろう。
しかし問題なのは、番組出演時の彼女は、当時の香港では決して「無名」などではなかったことだ。
彼女が駆け上った距離は、そのまま華人社会における香港エンタメ界の地位の下落幅を示してもいた。
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1991年8月16日、上海で生まれた鄧紫棋は、4歳のときに家族と共に香港に移住した。母親は声楽家、母方の祖父母はそれぞれボイストレーナーとサックス奏者という音楽一家で、彼女自身も幼い頃から作詞・作曲をはじめたらしい。デビューEPに収録された広東語曲『睡公主』(眠れる王女)は、13歳のときに作ったという。
いくつかの学生歌唱コンテストへの参加で見出されたのち2008年にデビューすると、小柄な体格に似合わないパワフルな歌声から「小巨肺」と渾名され、期待の実力派アイドル歌手となった。
2011年5月には19歳の若さで人気歌手の登竜門である「紅館」でのライブも果たしている。これは2002年に同じく19歳で紅館デビューを果たしたTwinsの蔡卓妍に並ぶ女性歌手最年少記録だった(ソロ女性歌手としては単独で最年少)。華人社会を中心に世界ツアーも行い、2012年3月には香港、日本、台湾で開催された「Asia Music Connection 2012」の香港代表として来日も果たしている。
そんな若手実力派としての期待の一方で彼女は、香港のメディアからその生意気な態度を批判されることも多かった。
特に物議を醸したのは、2012年に香港の主要な賞レースのひとつ商業電台主催の「叱咤樂壇流行榜頒獎典禮」の辞退を表明したことだった。選定基準が曖昧で不公平なこと、歌手がファンに直接アプローチできるネット時代にメディアがそれぞれに囲い込んだ賞レースにどれだけの意味があるのか不明なことなどが彼女の辞退の理由だったようだが、これまで見てきたようにメディアによる囲い込みと賞レースによるプロモーションを産業の核としてきた香港の芸能業界では、これは業界の体制そのものへの生意気な挑戦として受け止められた。
彼女がこんな大胆な態度を取れた背景には、彼女がこれまでの香港には珍しかった作詞作曲を行う女性シンガーソングライターであり、作曲家/作詞家からの曲提供をまつ必要がなかったこともあったのだろう。彼女の詩は、香港のプロ作詞家の作る歌詞と比べるとシンプルで口語的な言葉遣いで、悪くいえば陳腐だが、よくいえば素直な印象だ。
我們之間的距離好像一點點靠近
(少しづつ近づくような 私達の距離)
是不是你對我也有一種特殊感情
(君も特別な気持ちを持ってくれてるかな)
我猶豫要不要告訴你
(伝えるべきか 迷ってしまう)
我心裡的秘密 是我好像喜歡了你
(私の心の中の秘密 君のこと好きになっちゃったみたい)
また、同世代のネットユーザーたちからの支持があり、オールドメディアの支援を必要としなかったことも理由の一つかもしれない。
しかし香港ネット民と彼女の蜜月は長くはなかった。2013年、当時の行政長官を支持する彼女の発言をのせた出版物の内容がネットで話題となり、彼女は親政府・親中国系歌手の烙印を押されてしまったため、民主派/反中傾向の強いネット民の支持を失った。
そんな2014年の大陸でのブレイクは、香港で四面楚歌だった彼女が放った起死回生の一発だったとも言えるかもしれない。
しかし香港ネット民の反応は冷ややかだった。突如として国際的名声を得た彼女には、皮肉を込めて「国際G.E.M.」「宇宙G.E.M.」というあだ名がつけられた。
2018年11月、本当にアメリカのNASAに招かれてライブを行った際、ネットメディア『100毛』は、「香港を飛び出し、中国を飛び出し、宇宙G.E.M.がとうとう本当に宇宙に飛び出す!……長いこと見かけないが、今度はいつ香港に寄ってくれるんだろうか」と皮肉を書いた。
それまでの業界や政府への態度の問題に加えて、国際的名声を得た彼女には、「香港を捨てた」という批判がついてまわるようになる。
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ブレイクの翌年の2015年、G.E.M.はまさに心機一転を目指すマンダリン・アルバム『新的心跳』(新たな鼓動)をリリースする。この曲の歌詞の中の、別れを歌うラブソングの中に、離れていく彼女と香港の関係を連想させるような、悲しい別れを歌った曲が目立つ(私の考えすぎかもしれないが)。
於是你我從此遠了
(そして それから 君と僕とは遠くなり)
於是路從此分岔了
(そして それから 道もバラバラに分かれ)
你的臉從此就陌生了
(君の顔も それから 見慣れなくなった)
雖然我有一點不捨
(たとえ僕は どこか名残惜しくても)
你已經不再存在我世界裡
(君はもう 僕の世界には いないけど)
請不要離開我的回憶
(思い出からは 消えないでいて)
彼女自信おそらく、香港で自分が受けてきたバッシングとそこからの離脱を強く認識していたようだ。本作には『單行的軌道』(一方通行の線路)、『一路逆風』といったさらに意味深なタイトルの楽曲も収録されている。
這是一條 單行的軌道
(この1本の 一方通行の軌道)
我已經退不了後路
(もう後戻りする道はない)
安全な旅立ちを願う「一路順風」という中国語をもじった『一路逆風』は、ブレイク後の彼女を扱ったドキュメンタリー映画のタイトルにも取られた。
「高く飛ぼうとするには、逆風の中を行く痛みに耐えなければならない」というのが、このタイトルについて述べた彼女の言葉だ。
かつてTwinsが歌った「天后のジレンマ」のうち、高く舞い上がることの苦悩を体現したのが彼女だ、とも言えるのかもしれない。
雨傘運動の最中、地に足のついた成功を求めた「平民天后」謝安琪が積極的に応援歌を発表してデモ隊の支持を集めたのとは異なり、G.E.M.は運動期間中もそれ以降も政治的沈黙を貫いた。運動中の旺角占領区には、そんな彼女を「共産党の犬」などと揶揄する張り紙も見られたという。
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中国の「期待の新星」であるG.E.M.は、同時に香港の「堕ちたアイドル」でもある。もっとも商業的な成功という観点から見れば、「堕ちた」のはきっと香港音楽界の方なのだろうが。
20年前の同じく大陸出身の歌手フェイ・ウォンの「脱皮」がカントポップ凋落の兆しを示していたとしたら、G E.M.の飛躍は、大陸のマンダリンポップス市場が、すでにカントポップから離れて独自に成長したことを象徴するものだった。
返還直前の香港文化・社会についてしばしば指摘されていたのは、「北進想像」と呼ばれるメンタリティだった。これは大陸市場に進出(=北進)し、大陸の文化・社会を香港風に変革させていくことを目指すような、ある種の上から目線の想像力を示すものだった。香港が経済・文化共に大陸を大きくリードし、大陸のシンガーソングライターが「1997早くこい、私も香港に行けるから」と歌うような時代においては、そんな意識もあながち単なる自惚れともいえなかったのかもしれない。
1997快些到吧 八佰伴究竟是甚麼樣
(1997早く来て ヤオハンって一体どんなだろ)
1997快些到吧 我就可以去HONG KONG
(1997早く来て 私もホンコンに行けるから)
1997快些到吧 讓我站在紅勘體育館
(1997早く来て 私も紅館に立たせてよ)
今も香港の芸能界が「北」を目指す動きは変わらない。だけど香港の影響力が縮小した今、その北進のプロセスの中で変革を求められるのは香港のほうだ。G.E.M.も大陸での成功後は「大陸市場の趣味に合わせすぎだ」との批判が(主に彼女の独特なステージ衣装について)たびたびされるようになっている。
この北進問題は、もはや香港か大陸かという二者択一の「趣味」の問題ではない。縮小する香港のエンタメ界は大陸市場への依存度を強めていて、ある大陸紙が返還後香港映画について述べたように、「北上するか死をまつか」というような状態になっている。大陸市場を失うことは歌手にとって致命的であり、メインストリームの歌手たちは、単にマンダリンで歌ったりして大陸のファンの需要に合わせるだけではなく、当局を刺激することを恐れて政治的発言も避けるようになっている。
この昨今のエンタメ界の傾向をかつての北進想像と区別して「新北進想像」と呼ぶ研究者もいる。
G.E.M.の成功は、おそらくこの新しい戦略の音楽界における先駆けだった。
『カントポップ簡史』は、本文中では彼女について一度も言及しておらず、ただ末尾につけられた年表の中で「G.E.M. 鄧紫棋の『我是歌手2』での成功の後、香港人歌手たちが大陸でのリアリティ・ショウ、歌唱コンテストに参加するための北上を開始」と短く記しているだけだ。
彼女はもはや香港出身の歌姫ではあってもカントポップの歌姫ではないのだろうから、カントポップの歴史をまとめたこの本で取り上げられていないのも仕方のないことかもしれない。
しかし逆風の中を進んだ彼女の成功は、縮小する香港市場に見切りをつけ、大陸進出に生き残りをかける香港歌手たちの一つのモデルとなり、今日に至るまで無視することのできない潮流を生み出している。
→ 終章:”每當變幻時” 変化のなかのカントポップ
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