中国大陸製「エセ広東語」歌謡に学ぶ正しい「カントポップ」の作り方(終):カントポップは誰のものか
このnoteでは、これまで3回にわたって、中国大陸の非広東語話者によって作られ、歌われる「エセ広東語」歌謡を取り上げてきた。
それらの楽曲を「エセ」たらしめているちょっとおかしな部分を分析することで、反対に「正しい」カントポップの構成要素を考えようということで、発音上の規則などに関わるさまざまな特徴をとりあげてきた。
最終回(予定)となる今回は、そういった細かい話ではなく、少し大きな問いを考えたい。
つまり、
「なぜこんなにたくさんエセ広東語の歌が作られているのか」
という問いだ。
この問いを通じて、カントポップとは一体誰のものなのだろうか、という哲学的な問題も考えてみたい。
つまり「エセ広東語」の歌をただの「パチモン」や「文化盗用」だとみなすのではなく、広東語やカントポップを取り巻く文化政治の一つの表れとして、ちょっと真面目に検討してみたいのだ。
「エセ広東語」歌謡はまだまだいっぱいある
これまでの記事でも「エセ広東語」の歌をたくさん取り上げてきたけど、それでも中国大陸で日々作られるカントポップ風楽曲のごく一部でしかない。
私は広東人が動画配信をしているチャンネル「粤味调料」の「盘点塑料粤语歌」というレビュー動画シリーズを「エセ広東語」歌謡集めの重要な情報源にしている。このシリーズでは毎回3、4曲のエセ広東語歌謡を取り上げているが、なんと2024年の4月の時点で第10回まで続いている。
配信者のHysonも「まだこんなにあんの?」「みんなどっから見つけてくんの?」と毎回文句をつけながら楽曲をレビューしているが、とにかくもうどこから湧いてくるんだっていうくらいたくさんあるのだ。
せっかくなので今回の記事では、これまで取り上げていない曲を何曲か紹介していきたい。
傲七爷という歌手の〈鸣谢爱人〉。全編広東語で発音もかなり標準的、曲調もなかなかによく、普通に気持ちの良いバラードとして聴けてしまう。
けど声調はこれまで見た中で一番ぐちゃぐちゃだ。Hysonは再生した瞬間から「気持ち悪い」としかめっつらになり、途中で聞くのをやめていた。
次に银河快递というユニット(?)の〈北鼻迪斯科〉(ベイビーディスコ)。名前の通りのちょっとレトロなディスコ調の楽曲でいい感じ。広東語の発音もあまり標準的ではなく、声調もぐちゃぐちゃなので「エセ広東語」と呼ぶに相応しい楽曲ではあるものの、個人的には曲調はけっこう好きでお気に入りの一曲だ。
この〈鸣谢爱人〉、〈北鼻迪斯科〉はどちらも2023年のリリースらしいので、比較的新しい。エセ広東語歌謡はどんどん生まれているらしい。
キーワードは「ノスタルジア」?
〈北鼻迪斯科〉をはじめ、「エセ広東語」歌謡には全体にレトロ調の楽曲が目立つ。第2回の記事で取り上げた〈不该用情〉なんかはまさにレトロな1980年代〜90年代のカントポップ・バラード風の楽曲だった。
これまで何度か取り上げている王赫野〈大风吹〉もミュージック・ビデオを見ている限り、往年の香港がモチーフらしい。ビデオの終盤では、「歡迎來到90年代」(ようこそ90年代へ)と書かれたシャツを着る王赫野の姿が映る場面もある。個別のシーンの演出もどことなくかつての香港映画風だ。
90年代というより80年代風なのではないかという気もしなくもない(イントロはめちゃめちゃMJのビリー・ジーンだし)けど、なんにせよ「昔懐かしい」雰囲気をイメージした曲であることは間違いないだろう。
サビの「風よ吹け」と繰り返すサビは、徐小鳳が歌ったカントポップの名曲〈風的季節〉(1981年)を意識したのではないかという気もする。
他にも1980年代〜1990年代のカントポップ歌手へのオマージュを感じる「エセ広東語」歌謡はいくつかある。
黑雄の〈爱过的故事〉(2019年)は、歌い方がBeyondの黄家駒にそっくりで、もはやモノマネかと思うレベルだ。
歌い出しのメロディもBeyondの〈灰色軌跡〉のサビによく似ている。
他にも朱星杰の〈留我半醉〉(2019年)は、どことなく達明一派的な80年代香港のディスコ音楽を思わせる楽曲に仕上がっている。あるいは安全地帯(1980年代の香港でもカバーされまくっていた)っぽさも感じる。
最初に聴いた時に思い浮かべたのは、カントポップのこの曲(蔡楓華による〈プルシアンブルーの肖像〉のカバーである〈心中化妝〉)
要するに中国大陸における「エセ広東語」歌謡ブームは、たとえば日本における昭和歌謡、平成歌謡のリバイバルなんかと同じような、リアルタイムの経験のない若年層を巻き込んだ懐古趣味的ムーヴメントなんではなかろうか。あるいは近年の国際的なシティポップ・ブームと比較してもおもしろいかもしれない(つまり東京ではなく香港を中心とした「もう一つのシティポップ」として)。
広東語文化への侮辱なのか
つまり「エセ広東語」歌謡は、黄金期の香港産エンタメに対する、中国大陸の非広東語話者のある種の憧れやリスペクトを反映した現象としてとらえることもできるのではないかと思う。
第二次世界大戦後の香港で発展したカントポップ業界は、日本や英米の最先端の流行をカバーなどを通じて取り入れながら、中華圏の他地域を大きくリードする都会的で洗練されたポピュラー音楽を作り上げ、言語の壁を越えて、台湾や中国大陸でも広く聞かれる名曲を世に送り出した。
1980年代、1990年代のカントポップの名曲は、中国大陸でもかなり知られている。いまでも香港の歌手が大陸のテレビ番組で往年の名曲を歌えば、会場は大合唱になる。
このあたりに、本記事の冒頭で掲げた問いへの答えがあるんじゃないかと思う。つまり中国大陸で「エセ広東語」歌謡が作られるのは、そもそも広東語の歌が、広東語圏をこえて幅広く中国大陸で消費されていたからではないか、ということだ。
そう考えてみると「エセ広東語歌謡」は、広東語文化への侮辱、あるいはある種の「文化の盗用」として語られる(そもそもエセ広東語という呼称にそうした非難の意味が込められている)こともあるけど、ある意味で広東語文化が持つ文化的影響力の強さを示すものだとも言えるのではないだろうか。
そもそもポピュラー音楽の世界では、言語の「盗用」は珍しいことではない。J-POPのアーティストはさまざまな形で歌詞に英語(っぽい文言)を盛り込み、ネイティブからするとだいぶおかしいエセ英語歌謡を量産してきたわけだし、香港でも香港人が歌う「エセ日本語」の歌が近年急増中である(コレとか)。
「エセ広東語」を歌う人も、「広東語を壊してやれ」と思ってやっているわけではなく、きっと日本人が英語で歌ったり、香港人が日本語で歌ったりするのと同じく、「広東語の歌ってかっこいいな」という漠然とした憧れからなのではないかと思う。
国家的にはただの「方言」の一つに過ぎない広東語の未来は決して明るくはない。中国大陸においては、学校や放送における使用言語の変更など、広東語文化を抑圧するような言語政策もこれまでにとられてきた。だからこそ中国大陸の広東語話者が、広東語文化のあり方に敏感になる気持ちもわかる。
でも、マジョリティである非広東語話者がわざわざ広東語の歌を作ったり、聴いたりするようなトレンドがあるのであれば、広東語文化にもまだまだ、そう簡単には「国語」に回収されないだけの、特別なパワーがあるんじゃないかとも思うのだ。
カントポップは誰のものか
「盗用」の話が出たついでに、もう一つ考えたい問題がある。
それは「カントポップ」はいったい誰のものか、という問題だ。
流行歌なんて誰のものでもない、誰だって好きな人が聴けばいいじゃないかという考えももちろんあると思う。
でもカントポップに関しては、そう簡単には片付けられない事情もある。香港人自身が、カントポップの「所有権」を主張してきたからだ。
たとえばカントポップ業界に多大な貢献をした伝説的作詞家の黃霑(ジェームズ・ウォン)は、自らカントポップの歴史をまとめた博士論文において、広東語流行歌のことを「香港人が見つけた自分独自の声」と呼んでいる。
同様の主張は、香港の文化評論の中で繰り返し語られてきた。第二次世界大戦後、共産党政権の成立により中国大陸と隔絶された香港の住民たち(新たに大陸から逃げてきた人も含め)は、独自の都市文化に基づく「香港人」としてのアイデンティティを形成してきた。香港人たちがアイデンティティの拠り所とした都市文化の一つが、広東語で歌われる都市的流行歌、すなわちカントポップだった(詳しくは以下の連載を見てほしい)。
だからカントポップは「香港人の声」なのだ。
でも、カントポップは香港だけで聴かれてきたわけではない。「エセ広東語」歌謡をめぐる議論を見て、中国大陸の広東語話者たちのカントポップにかける思いの強さが伝わってきた。カントポップを自分たちのアイデンティティを支える歌とみなし、その正しい姿にこだわり、「エセ広東語」に反対する人々は、中国大陸側にも存在する。
カントポップを「香港人の声」とだけみなしてしまうような文化論は、そうした中国大陸側の広東語話者の存在を想像できているだろうか、と自戒もこめて思った。
余談:今回の連載では取り上げられていないが、大陸製のエセではないカントポップももちろん存在する。個人的にいくつか聴いた中では、街道办GDCという広州のグループの〈青春记录号〉(2017)がとても気に入った。
ラップ・パートはかなり香港のインディーズ・バンドにも近い雰囲気があるし、フィーチャリングされている同じく広州出身の女性歌手・阿細が歌うフックはメロディも含めなんとも濃厚なカントポップ臭を感じる。
* * *
そしてこれまで繰り返している通り、カントポップは香港はもちろん、さらには広東語圏を飛び越えて、広く中華圏で聴かれていた。カントポップを「香港人の声」と呼んだ黃霑自身も、同じ論文の中で、1980年代以降「非広東語地区からも香港のカントポップを学び、歌う人が出てきた」ことを、驚きと誇りをもって記している。
カントポップは、少なくとも過去の特定の時代には、中国大陸でも幅広く聴かれていた。その意味では往年のカントポップの名曲を「自分たち」の思い出として捉えている人は、香港や広東語圏以外にもたくさんいても不思議ではない。
カントポップは誰のものか。この問いに答えるのは簡単ではない。香港の人にとってローカルなアイデンティティの拠り所となるような、特別なものでありながら、同時に地域を越えて消費されたグローバルな消費文化でもある。この点にカントポップやあるいは世界に開かれた国際都市としての香港の流行文化の大きな特徴があるのではないか、と思ったりもする。
「1997」の黄昏
さて、少し話が長くなり過ぎたので、「エセ広東語」歌謡を取り上げるこの連載もそろそろ終わりにしたい。
最後を締めくくるために、紹介したい「エセ広東語」歌謡がある。蓝兰という歌手が歌った〈晚风1997〉(2021年)というタイトルの曲だ。
サビの部分だけが広東語で歌われている。
全体にシティポップ風味も感じるレトロな仕上がりの楽曲になっている。
タイトルに含まれている「1997」は、もちろんイギリス領だった香港が中国に「返還」された年のことだ。歌詞自体にはこの数字や香港への言及はなく、ただ「あなた」と共に過ごしてきた日々の良い思い出が振り返られているだけなので、その意味するところは想像するしかない。
「1997」と言えば、思い浮かぶのは艾敬の〈我的1997〉(1992年)だけど、あの曲は中国大陸の視点から、香港の先端的ライフスタイルへの憧れを歌う未来志向の歌だった。同じ数字が、今では懐古的な曲調の歌に使われていることに、偶然かもしれないけれども大きな時代の変化を感じる。
1997年以降、中国大陸も香港も大きく変わった。
その変化の中で、中国大陸の人にとって、かつては目指すべき「未来」だった香港が、いまでは懐かしさを感じさせるような「過去」になったということなのだろうか。
あるいはこの歌や他の「エセ広東語」のなかに、どこかそんな変化で失われた時代、失われた香港への感傷のようなものを感じてしまうとしたら、流石に考えすぎだろうか。