おいしい香港エッグタルトの歌:甘い香りと悲しい別れ 【林海峰 《蛋撻 Egg Tart》】
(トップ画像出典:林海峰『蛋撻』ミュージックビデオより)
先日、香港のある歌手が『蛋撻』(エッグタルト)という曲をリリースした。
エッグタルトとは、小麦粉で作った生地の器にカスタードクリームを流し込んで焼き上げるお菓子で、香港の名物だ。一口頬張ればバターと卵黄のしあわせな香りが口いっぱいに広がり、サクサクの生地とトロトロのクリームの絶妙なハーモニーがたまらない。広東語では「蛋撻」(ダンターッ)と呼ばれている。
(”蛋”が卵の意味で”ターッ”は英語の”tart”の音訳)
もとは西洋のカスタードタルトの影響を受けて生まれたらしいが、香港で独自の発展を遂げた(マカオにも似たようなお菓子があるが製法が異なる)。古くから巷の大衆的な店舗で提供され、庶民のおやつとして香港市民に親しまれている。
街中を歩けば「新鮮出爐」(焼きたて)の看板を掲げて香ばしい「蛋撻」を販売するベーカリーやカフェがいくつもあり、中には有名人御用達の名店もあるという。
この『蛋撻』という歌では、そんな香港式エッグタルトの魅力がジャズ調の軽快な曲に載せて歌われている。
歌っているのは林海峰(ジャン・ラム)というベテランの歌手兼コメディアンだ。かつて「軟硬天師」(Softhard)というコンビの一員として活動し、コミカルな楽曲で人気を博したらしいので、ひと昔前の香港のエンタメが好きだった方には懐かしい名前かもしれない。最近ではソロ活動をメインにしているが、相変わらず世相を風刺したり茶化したりする楽曲を精力的に発表している。
なお、この『蛋撻』のミュージックビデオには『軟硬天師』時代の相方である葛民輝(エリック・コット)が出演しており、久々のコンビ共演にもなっている。
おいしい香港式エッグタルトの歌
さて、いったいどんな歌なのかというと、前半ではひたすら香港式エッグタルトのおいしさが歌われている。
ちなみに香港式エッグタルトには2種類の流派があり、外側の生地が異なる。「曲奇皮」と呼ばれるクッキー生地のものと「酥皮」と呼ばれるパイ生地のものとであり、どちらがおいしいかはエッグタルト好きの間でも意見の分かれるところだが、この歌で歌われているのはパイ生地の「酥皮蛋撻」の方だ。
2番ではエッグタルトとミルクティー(これも香港名物の飲み物だ)との組み合わせが最高であること、スターも足を運ぶ名店があることなどが歌われる。
サビでも香港の昔ながらの「酥皮蛋撻」の素晴らしさが讃えられている。
日本語訳ではうまく表現できなかったが、原文では「香」(料理がおいしい匂いを放つ様子)と「港」(香港の略称)の二字が繰り返されている。ふたつを合わせると「香港」になる仕掛けだ。
なぜエッグタルトが歌になるのか?
ただのエッグタルトの歌だったら、わざわざこうして記事を書いてまで取り上げることもないかもしれない。この歌には実はもう一つの大きなテーマがある。
ミュージックビデオに目をやると、冒頭から、大きな荷物を抱えて空港に向かう女性と、彼女を送迎する運転手の男性の姿が描かれている。空港への道中、女性はエッグタルトを食べながら窓の外の景色に目をやり、ひっそりと涙を流す。
空港についた女性は荷物を手に車から離れようとするが、運転手に呼び止められる。彼の手には女性が車内に置き忘れたエッグタルトの箱が握られていた。女性は涙を堪えながら箱を受け取り、決意の表情を浮かべて旅立っていく。
女性はきっとこれから長く香港を離れるのだろう。旅立つ前、最後に香港名物のエッグタルトを食べながら、自分の故郷の街に思いを馳せていたに違いない。先述の通り「エッグタルト」は香港を代表する大衆的食べ物であり、ここでは香港を離れる人にとって名残惜しい「香港の味」の象徴として用いられているのだ。
歌詞を見ても、中盤のブリッジ以降は、旅立つ友との別れが歌われている。
この別れを歌うブリッジの前には、日本でも『蛍の光』として知られるスコットランド民謡『Auld Lang Syne』のメロディーが挿入されている(2:22〜)。
日本では『蛍の光』といえば、卒業式や閉店時間の歌としてお馴染みな気もするが、香港では(あるいは元々のスコットランドの歌でも)古い友情を讃えたり、あるいは旧友との別れを惜しむ文脈で歌われるというイメージがあるようだ。『友誼萬歳』という中国語題もつけられている。
この挿入も「別れ」という曲の題材を強く印象づけるための演出だろう。
このように『蛋撻』は、表向きにはエッグタルトを題材にした歌だが、実のところ香港を離れる人との別れを大きなテーマとしているのだ。
移民ブームと惜別ソング
昨今の香港では、政治情勢の激変もあり、海外への移住を選択する人が増えているとされる。この歌もそうした事情を踏まえているのだろう。
似たような趣向の「惜別ソング」は、昨年以降の香港で大量にリリースされ、ヒットソングも複数生まれている。たとえば人気ボーカルグループのC AllStarが昨年4月に出した『留下來的人』(残ると決めた人)、同じく人気バンドのRubberBandが6月にリリースした『Ciao』などである。
以前このnoteで紹介した『係咁先啦』(それじゃあ、またな)も同種の歌である。
香港を去る人が増え、友を見送ったり、あるいは見送られたりする経験が日常的なものになってしまったからこそ、こうした歌が共感を呼んでいるのだろう。
香港から海外への脱出がブームになったのは、今回が初めてではない。1984年に香港が中国に返還されることが決まってからの数年間、中国共産党の統治を恐れて海外移住を選ぶ人が増加し「移民ブーム」(移民潮)と呼ばれた。さらに1989年に北京で民主化運動が弾圧される「天安門事件」が起こると、その傾向はさらに加速した。この時期にも「移民ブーム」を題材にした歌が多く作られている。
そのうちの一つ、達明一派というグループが1988年にリリースした『今天應該很高興』(今日はとても楽しい日になるはずだ)では、友達が海外に移住してしまい、ひとり寂しいクリスマスを過ごす人物の心情が歌われている。
今回とりあげている『蛋撻』には、ブリッジ部分の歌詞に「黃偉業」と「劉瑪莉」という人名がなんの脈略もなく登場するが、この『今天…』に登場する海外移住した二人の友人の名前「偉業」と「瑪莉」からとられたものだろう。
この歌が『今天…』と同じ、香港からの海外への移民の増加という社会問題を題材にしていることをさりげなくリスナーにアピールするための仕掛けかもしれない。
ちなみに達明一派は「黃耀明」と「劉以達」のふたりからなるグループである。「黃」と「劉」という名字も、彼らの名前にちなむものと思われる。
去る人と残る人
これらの「惜別ソング」に共通する特徴は、香港を離れる人の気持ちだけでなく、香港に残された人々の気持ちもとりあげていることだ。
この『蛋撻』の歌詞も、最後は残された人を勇気づけるメッセージで結ばれる。
ミュージックビデオでも、2番以降では、女性を空港まで送迎した男性のその後が描かれている。女性の最後の表情がどうしても忘れられない男性は、エッグタルトに関するSNSの情報を追いかけはじめ、仕事の合間にあちこちの店を食べ歩き、ついに究極の「酥皮蛋撻」(パイ生地エッグタルト)に出会う。
ビデオではさらに、男性が自らその出す店舗で働きはじめ、香港式エッグタルトの作り方を習得する姿が描かれている。
エッグタルトを食べるうちに、そのおいしさに目覚め、運転手をやめてエッグタルト屋を開きたくなったのだろうか。
あるいは彼自身も香港を離れる決意をしたから、その準備をしているのかもしれない。香港を離れてもおいしいエッグタルトが食べられるように。そして何より、すでに香港を離れてしまった人たちにも、懐かしい故郷の味を届けられるように。
* * *
おいしい香港名物エッグタルトについて歌うこの歌は、故郷を離れざるを得ない人々が増えている昨今の深刻な香港情勢を暗に歌った歌でもある。
そんな一見不思議な組み合わせが成り立つのは、それほどエッグタルトが、香港の人々にとって、故郷の思い出と結びついた特別な食べ物だからだろう。
あるいは甘いお菓子にすら悲しい別れを思い浮かべてしまうのが、香港のつらい現状なのだとも言えるのかもしれないけれど。
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