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地方映画史研究のための方法論(45)メディア論と映画⑥ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る4──映画の記憶とメディア考古学の旅

見る場所を見る4──映画の記憶とメディア考古学の旅

2025年3月14日(金)から16日(日)まで、元映画館(荒川区東日暮里3-31-18 旭ビル2F)にて展覧会&上映会「見る場所を見る4──映画の記憶とメディア考古学の旅」を行います。鳥取を舞台に進めてきたプロジェクト「見る場所を見る」のこれまでの歩みを振り返る作品展示「鳥取の映画館の記憶──イラストレーション・ドキュメンタリー」に加え、地方都市の盛り場5ヶ所の映画館跡を巡る新作映画『ファントムライダーズ』の上映とトークイベントも実施予定。この機会にぜひご覧ください。

杵島和泉・佐々木友輔『ファントムライダーズ』(2025)

ある日偶然見つけた大量の映画チラシと一冊の本。そこには日本各地の映画館を巡ったエッセイが綴られていた。「私」にとっては、一度も訪れたことのない場所で上映された、一度も見たことのない映画のはずなのに、なぜか初めて見た気がしない。「私はこの映画を知っている。私は昔、確かにこの映画を見た……。」自分のものではない記憶の正体を探るべく、「私」は本に記された劇場を訪れる旅に出る。鳥取、神戸、金沢、熊本、盛岡と、各地の盛り場の風景と興行の痕跡、移動する身体から、個人的かつ集合的な日本映画史を記述する試み。

『ファントムライダーズ』(60分、2025年)

共同監督:佐々木友輔、杵島和泉
出演:大久保藍、中村友紀、牧小雪
リサーチ・脚本:杵島和泉、脚本・撮影・編集:佐々木友輔
照明:田中哲哉、藤森このみ、メイク:梶川真奈
イラスト:Clara、ロゴデザイン:蔵多優美(ノカヌチ)
音楽:田中文久、チェロ:木下通子
主題歌:「マイラヴセプテンバー」
(作詞・作曲・歌:にゃろめけりー、編曲:田中文久)
資料提供:門村裕明
協力:佐藤洋一、湖海すず
平岡美歩、井上柊、⿃取⼤学演劇サークル劇団あしあと
ロケ協力:鳥取県立博物館、岩手県公会堂

「見る場所を見る」とは

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」、「見る場所を見る3+——親子で楽しむ映画の歴史」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんと共同で行っている研究会・読書会で作成したレジュメを加筆修正し、このnoteに掲載している。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

パラテクスト分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」
(34)ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』
(35)ジョナサン・グレイのオフ・スクリーン・スタディーズ
(36)ポール・グレインジによるエフェメラル・メディア論
(37)アメリー・ヘイスティのデトリタス論

雑誌メディア研究
(38)キャロリン・キッチ『雑誌のカバーガール』
(39)佐藤卓己のメディア論的雑誌研究

メディア論と映画
(40)マーシャル・マクルーハンのメディア論
(41)ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』
(42)ポール・ヴィリリオの速度学
(43)F・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』
(44)ユッシ・パリッカのメディア地質学
(45)ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論

ブリュノ・ラトゥール

ブリュノ・ラトゥール(1947-2022)

Bruno Latour, französischer Soziologe und Philosoph, bei einer Konferenz zum Anthropozän.

今回は、3月に行う展覧会&上映会「見る場所を見る4──映画の記憶とメディア考古学の旅」の予習も兼ねて、14日(金)のゲスト渡邉大輔さん(映画史研究者・批評家)および15日(土)のゲスト田中晋平さん(映画研究者)の研究とも関わりの深い理論を取り上げることにしたい。

ブリュノ・ラトゥールBruno Latour)は、フランスの哲学者・人類学者・社会学者。アクターネットワーク理論Actor–network-theory)の提唱者として知られる。1947年にブルゴーニュ地方のボーヌに生まれ、1975年にトゥール大学で哲学の博士号を取得。1982年から2006年までパリ国立高等鉱業学校、2017年までパリ政治学院で教授を務めた。2022年没。

主な著作に『科学が作られているとき——人類学的考察』(川崎勝・高田紀代志 訳、産業図書、1999年、原著1989年)、『虚構の「近代」——科学人類学は警告する』(川村久美子 訳、新評論、2008年、原著1991年)、『科学論の実在——パンドラの希望』(川崎勝・平川秀幸 訳、産業図書、2007年、原著1999年)、『法がつくられているとき——近代行政裁判の人類学的考察』(堀口真司 訳、水声社、2017年、原著2005年)、『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』(伊藤嘉高 訳、法政大学出版局 2019年、原著2005年)、『情念の経済学——タルド経済心理学入門』(ヴァンサン・A・レピネとの共著、中倉智徳 訳、人文書院、2021年、原著2008年)、『近代の〈物神事実〉崇拝について——ならびに「聖像衝突」』(荒金直人 訳、以文社、2020年、原著2009年)などがある。

社会的なものの社会学から連関の社会学へ

社会的なものの社会学

ラトゥールは『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』(伊藤嘉高 訳、法政大学出版局 2019年、原著2005年)において、自身が提唱するアクターネットワーク理論(Actor–network-theory)、通称ANTの前提となる問題意識と、その方法論を解説している。冒頭で提起されるのは、「社会的(ソーシャル)」という語への疑義である。

ラトゥールによれば、社会科学者が「社会的」と述べる時、そこでは二つの異なる事象が指し示されているという。一方では、複数の(非社会的な)ものが結びつく動き全般を指して「社会的」であると言われる。だが他方では、「家族」や「国家」、「市場」や「制度」など、すでに一つに組み合わさり、安定した状態にある物事を指し示すために、「◯◯は社会的だ」と語られることもある。

前者の意味で「社会的」を定義し、複数のものが一つに組み合わさったものはすべて「社会的なもの」と呼ぶなら、何の問題もない。だが、例えば「高校を卒業したらすぐ社会人になれ」とか「それは社会の問題ではなく政治の問題だ」と言われる時のように、「社会的なもの」を固定的な実体として捉え、特定の性質を備えるものとして扱い始めると、途端に矛盾が生じる。教育の場も社会の一部ではないのか。社会と政治をどのように線引きできるのか。どこからどこまでを「社会的」と見做すのかが不明瞭で、本来の意味が破綻してしまっているのだ。

ラトゥールは、社会学(ソシオロジー)をはじめとする従来の社会科学の多くがこの陥穽にはまっていると指摘し、それらを「社会的なもの(ザ・ソーシャル)の社会学」(p.21)と名づけている。すなわち、人間の営み以外のものをなるべく排除して「社会的なもの」に該当する対象を限定し——特に社会科学と自然科学の厳密な区別にこだわることで——この学問は自律した科学の一分野であるという信念を維持しようとするのである。

だが先述したように、「社会的なもの」の範囲を定めることは困難であるし、その範囲は固定的ではなく流動的なものなので、ますます厳密な定義は難しくなる。こうした「社会的なもの」の不確定性の問題を、「社会的なものの社会学」では解決することができないのだ。

連関の社会学

上述の問題意識を踏まえてラトゥールは、どうすれば「社会的なものを組み直す」ことができるか、すなわち、「社会的」ないしは「社会」という語に頼らずに、それらが説明しようとしてきた事象を別の仕方で記述し直すことができるかと問う。

そのためにはまず、「社会的なもの」を固定的な実体として扱うのではなく、異種多様な要素同士の「つながり」ないしは「連関 association」が「社会的」なのだという語源に遡った定義に立ち返らなければならない。その上で、社会学を「つながりをたどること tracing of association」と定義し直し、「それ自体は社会的ではない事物同士のある種の結びつき(a type of connection)」(p.15)を辿ることで、これまで「社会的」と呼ばれてきたものの成り立ちを説明しようとするのだ。ラトゥールはこれを「連関(アソシエーション)の社会学)p.21)と呼ぶと共に、それを実現するための具体的な方法論として、アクターネットワーク理論を提唱するに至る。

アクター−ネットワーク理論(ANT)

アクターとエージェンシー

ここからは、ANTとはいかなる方法論なのかを見ていく。まずは頻出する専門用語の確認から始めよう。

先ほど、「社会的なもの」は異種多様な「要素」あるいは「事物」同士のつながりによって形成されていると述べたが、ラトゥールは「要素」や「事物」に代わる言葉として「アクター Actor」(行為者)という語を導入する。また、あるアクターが別のアクターに働きかけることで何らかの作用が生じたり、何かしらの行為が促されたりする時、そうした行為・作用を可能にする力を「エージェンシー agency」と呼ぶ。エージェンシーは一般的には「行為主体性」「行為能力」などと訳されるが、ラトゥールはこの語に別の意味を与えていることに注意しよう。

すなわち、ANTにおけるアクターは、能動的に行為する主体であるというよりも、他のアクターからの働きかけによって「行為・作用させられる」ものであるという側面が強調されており、エージェンシーもまた、特定のアクターが固有に持つ能力ではなく、複数のアクターの相互作用の中で生じる動的なプロセスとして定義される。さらにラトゥールは、アクターが自律的に存在するものではなく、他のアクターとのつながりの中に存在し、行為することを示すために、「アクター−ネットワーク Actor-Network」という概念を導入するのである。

中間項と媒介子

あるアクターから別のアクターへと意味や力、エージェンシーなどを移送(トランスポート)する際、インプットされたものがそのままアウトプットされる場合は、その移送手段を「中間項 intermediary」と呼ぶ(pp.73-74)。他方、自らが運ぶ意味や要素を「変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」(p.74)ことで、インプットされたものが別のかたちでアウトプットされる場合は、その移送手段を「媒介子 mediator」と呼ぶ(pp.73-74)。

正常に機能するコンピュータによる情報伝達は中間項の具体例となるが、コンピュータが故障すれば、複雑な媒介子へと変化してしまうかもしれない。対して日常会話は、感情や意見、態度によって複雑な媒介子の連鎖を生み出すが、すでに別の場所で為された決定を追認するだけの議論であれば、予測可能で、何ら問題を孕まない中間項になる。

相互作用の連鎖を辿る

先ほども確認したように、ANTは、様々なアクターの相互作用の連鎖を辿ることで、途切れなく結びついた連関を描き出し、「社会的なもの」がいかにして成り立っているかを解き明かすための方法論である。それゆえ、「理論」と銘打たれてはいるが、特定の事象を合理的に説明できるインスタントな仮説や構造を教えてくれるわけではない。むしろ、そうした「社会的」説明のために用いられて来た理論や概念の根拠を根本から疑い、再検証することが、ANTの重要な役割と言えよう。

あらゆる存在を仕切り直し、分散させ直し、ひもとき、「脱社会化」することで、本格的にあらゆる存在を集め直す作業を行えるようにする必要がある。(中略)この点は、科学だけでなく政治にとっても極めて重要である。

社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』p.423

この目的を実現するためには、(1)グローバルなものをローカル化する作業と、(2)ローカルなものを分散させる作業とを両面から行い、従来は別の次元で思考されていた複数の場を結びつけ、地続きにしていくことが求められる。ここからは、それらの作業の具体的なプロセスを確認することにしよう。

グローバルなものをローカル化する

フラットな地形の上を這い歩く🐜

Ants walking

様々なアクターの相互作用の連鎖を辿り、途切れなく結びついた連関を描き出す上で、特に重要かつ困難な作業となるのは、遠く離れた場所や異なる時間にまでエージェンシーを移送する経路を見つけ出すことであるが、その際、「コンテクスト」や「フレームワーク」などのグローバル(マクロ)な枠組みを用いて、ローカル(ミクロ)な場における連関を俯瞰的に説明しようとすることは厳に慎まなければならない

なぜなら、ANTのそもそもの目的は「社会的なものを組み直す」こと、すなわち「社会」や「資本主義」などの抽象的な概念に頼らずに、それらが言い表そうとしてきたものを具体的なアクターの連関によって記述し直すことにあるのだから、特定のアクターの行為・作用を「資本主義」や「市場経済」といったコンテクストから説明しようとするのは、本末転倒な振る舞いにしかならないのだ。

ローカルとグローバルの二層構造を設定し、俯瞰的・三次元的な思考を展開するのではなく、徹底してフラットで二次元的な地形の上を、蟻(ANT)が這い歩くような思考を展開すること。遠く離れた2つの場をつなぐために、その間をつなぐアクターを一つずつ地道に辿り、なるべく隙間ができないように敷き詰めていくことが重要なのだとラトゥールは言う。

オリゴプティコン

以上のような方針のもと、グローバルなものをローカル化するための有効なツールとなるのが、「オリゴプティコン oligopticon」と「パノラマ Panorama」である。

オリゴプティコンとは、駅の改札口のように、通路を狭めることで人や物の流れを限定・集中させ、詳細な観察を行うための場や仕組みのことだ(p.348)。例えば科学的知識というグローバルな役割を果たしそうなものを検討する際にも、それをローカルな場に置き直し、科学的知識はどこで生み出され、どのような連関を辿って私たちのもとに届けられるのかを問う必要がある

オリゴプティコンとは、駅の改札口のように通路を狭めることで人や物の流れを限定・集中させ、詳細な観察を行うための場や仕組みのことであるとラトゥールは言う。

言語学者であれば、研究を遂行して言語の構造を解き明かすために、机や本棚、文書整理箱、コピー機、研究室、図書館、休憩所、コーヒーポット、それらの維持・管理を行う大学などの研究機関を必要とするだろう。これらの生産の場は、研究内容には無関係な「中間項」と見なされがちだが、実際にはそうした人とモノの相互作用が研究内容に具体的な影響を与える「媒介子」として機能し、生み出される知識や言説に重大な変化をもたらす場合もあるだろう。またそうでなくても、こうした地道な記述を続けることで、ローカルとグローバルの二層構造をフラットで二次元的な地形の上に置き直し、互いに地続きなものとして扱うことが可能になる。

パノラマ

パノラマとは、外部からは完全に閉ざされた円形の空間の壁に絵が描かれたり、映像が投影されたりすることで、360度に広がる首尾一貫した光景を眺めることができるというものである。

「日本パノラマ館の検証復元」(『季刊大林』26号、1987年)より

ラトゥールはパノラマを、「コンテクスト」や「フレームワーク」、「社会」や「資本主義」などのグローバルな概念が、ローカルな場においていかなるかたちで現れてくるかを問うために用いている。すなわち、グローバルな概念は、特定の事象や世界のありようについての総体的かつ完全な説明を与える「全体像(ビック・ピクチャー)」を提示しようとするが、それはあくまでパノラマに描かれた絵や映像にすぎない。逆から言えば、パノラマは、明らかにローカルな場に置かれた窓のない室内空間でありながら、数々の特殊効果を駆使して仮構された「全体像」を提示することで、人びとが「コンテクスト」や「フレームワーク」という常識的な考えを手にしたり、特定の「社会的」課題や「政治的」課題に眼を向けたりすることを可能にしているのだ。 

ローカルなものを分散させる

ローカルなものを分散させる

ラトゥールは、ANTを実践するためには、グローバルなものをローカル化するだけでなく、ローカルなものを分散させることも必要であると言う。

アクターという語は「役者」とも訳されるため、どうしても、主体的な意思を持つ個人が対面でのコミュニケーションを行う姿を想像してしまいがちである。だがここまで見てきたように、「主体」的な人間だけがアクターになるわけではなく、非人間的なアクターも無数に存在するし、アクター間の相互作用が「対面」の範囲を越えて、異なる時間や空間にまたがって生じることもあるだろう。

だとすれば、アクターの連関を辿るために、一つのローカルな場に注目するだけでは不十分だ。「ローカルなものを分散させる」とは、(1)特定のローカルな場を越えて別のローカルな場へと広がっていく相互作用を追跡することであり、さらには、(2)「個人」や「個体」として認識されるローカルなものをアクターの最小単位として捉えるのではなく、それ自体が無数のアクターの相互作用によって組み上げられたものであると捉え直し、分解していくことを意味する。そのようにしてANTは、「ローカル」の語も「グローバル」の語も使わない記述を通じて、「ローカルなもの」がいかにして組み上げられてきたかを明らかにしようとするのである。

文節化・ローカル化の装置——特定のローカルな場を越えて、別のローカルな場へと広がる相互作用を追跡する

ここでは、大学の講義室というローカルな場を例として取り上げ、それをさらに分解・分散させてみよう。

大学の講義室

講義室は木材やコンクリート、スチール、ニス、塗料など、様々なモノを介して組み上げられており、その建築作業は、今はその場所にいない数々の労働者や職人の仕事によって為されてきた。また、講義室に入室した教員が行うべき行為(壇上に上がり、学生と向き合い、話し声を届ける……)や学生との距離、一度に聴講できる人数の上限は、異なる時間と場所において建築家が考案した設計が、図面や仕様書など紙を用いた技術によって物質的に表現され、労働者や職人に受け渡された結果、実現したものである。

このように、講義室というローカルな場は、それ自体で自律して存在するのではなく、他のローカルな場から移送されてきた数々のエージェンシーが集い、枠づけられることで形成されている。こうした、外部から移送されて来てローカルな場の形成に影響を与える力のことを、ラトゥールは「文節化の装置articulator」あるいは「ローカル化の装置 localizer」(p.374)と呼ぶ。 

プラグイン

続いて、「主体」や「個人」といったローカルな概念をいかにして分解・分散させるべきかを検討する。ラトゥールは、「個人」や「主体」とは、多種多様な場所から得られる諸々のプラグイン(拡張機能)が一つに組み合わさり構成された、暫時的な効果なのだと指摘している(p.398)。

例えば道行く人びとの歩き方一つを見ても、その人の手足の位置や動かし方は純粋に個人的なものではなく、アメリカ映画など他国の俳優やスターの歩き方に影響を受けていたりすることがしばしばある。同様に、声のトーンやゼスチャー、恋人の慰め方や髪のブローの仕方、着るべき服装を選ぶために雑誌を頼る習慣なども、どこから影響を受けてそのような行動をとるようになったのかを辿ることができるのではないか。

このように、人間の行為や振る舞いを心理的・内面的な要因から説明するのではなく、すべては外部からのプラグインによって引き起こされたり、与えられたり、可能になったりしたものであると捉え直すことで、「主体」や「個人」といった概念に頼ることなく、それをアクターの連関として記述可能になる

こう書くと、アクターは別のものに支配されているのか、奴隷化されているのかといった非難をする者も出てくるだろうが、それは間違いだとラトゥールは言う。「アクターは、分かちがたい結合(attachment)の数が多ければ多くなればなるほど、その存在の強度が強まる。媒介子が多ければ多いほどよいのだ」(p.415)。

地方映画史研究への応用

形式と規格

以上のようにANTを実践し、様々なアクターの連関を描き出すことができるようになれば、いよいよ「社会的なもの」がいかにして成り立っているのかを検討する段階に移ることができる。本稿では、地方映画史研究への応用が特にイメージしやすいものとして、「形式 form」と「規格 standard」に関するラトゥールの言及を見てみよう。両者は共に、遠く離れたアクターにまでエージェンシーの移送を可能にする連結装置(コネクタ)であり、「社会的なもの」を定型化(フォーマット)する上で極めて重要な役割を果たしている

まず、「形式」とは翻訳の一種である。報告書であれ、統計資料であれ、地図であれ、何かしらのものを形式の中に入れることで、それをある場から別の場へと歪みなく移送することが可能になる。ラトゥールは、ここまで否定的に論じてきた「社会的なものの社会学」も、「形式」を生み出す卓越した力を持っており、それゆえ——良くも悪くも——「社会的なもの」を定型化(フォーマット)し、グローバルな概念を作り出すことに長けているのだと再評価する。その力は「連関の社会学」およびANTの実践のためには障害物となるが、人びとが自らの生きる社会を「手にする」感覚を抱くことができるようになり、特定の「社会的」問題や「政治的」課題を設定して、それに取り組めるようになるという点では、非常に大きな成果を上げてきたのである。

また形式よりも強固で、統一的な基準を設けるものとして「規格 standard」がある。メートルやグラムといった規格もしくは計測基準(メトロロジー)は、ローカルかグローバルかという区別を越えて、複数の場へとネットワークが広がっていくのを追跡できる傑出した例である。国際度量衡局が管理するプラチナ合金のキログラム原器は、パリ近郊の原器庫に保管されたローカルなモノでありながら、同時に、1キログラムの質量を示すものとして取り決められた、グローバルな制度でもあるのだ。

このように「形式」や「規格」に注目することで、「社会的なもの」やグローバルな概念がいかにして生み出されてきたかを辿ったり、ローカルなものとグローバルなものを地続きにして、その関係を問い直すことができる

地方映画史研究においても、例えば映像視聴の形式(上映会、自宅での視聴など)についての連関を辿ることで、「映画とは何か」という抽象的な問いを、従来とは異なるアプローチから再検討できるかもしれない。また、個人映画フィルムの規格(8ミリ・9.5ミリ・16ミリなど)やビデオの規格(VHSとベータマックスなど)に注目し、物理的なモノの流通や変遷を辿ることから、これまで用いてきた「映画文化」や「映像文化」の枠組みを問い直し、より広範な領域に拡散する映像利用のありようを浮かび上がらせることができるかもしれない。

田中晋平「《プラネット映画資料図書館》の上映活動——1975~1988 年まで」(2023)

実際にANTを地方映画史研究に導入した例として、田中晋平《プラネット映画資料図書館》の上映活動——1975~1988 年まで」(『映像学』109巻、日本映像学会、2023年)が挙げられる。「プラネット映画資料図書館」とは、フィルム・アーキビストでもある安井喜雄をはじめとするメンバーたちが、1974年に大阪で立ち上げた団体で、映画フィルムや関連資料の収集・保存、それらを活用した自主上映活動を続けてきた。2007 年にはプラネットの資料を母体とし、神戸・新長田に「神戸映画資料館」が開館している。

田中はプラネットの上映活動を論じる上で、参加したメンバーの興味関心などの心理的要因や、同時代の文化的・社会的コンテクストのみに注目するのではなく、収集されてきたフィルムや資料、上映機材、上映会場などにも注意を払うべきだと主張する。

物理的に暗闇を確保し、音を調整して、フィルム上映にふさわしい「仮設の映画館」を築くこと。自主上映は、グループのメンバーや協働者、そこに通った観客たちの存在に加え、こうした会場設営や撤収、さらにフィルムの調達など、モノとの関わりのなかで実現される。

田中晋平「《プラネット映画資料図書館》の上映活動——1975~1988 年まで
『映像学』109巻、日本映像学会、2023年、p.92

上映会の観客や、関係する他の上映団体、さらにはフィルムや上映機材といった物理的なモノも、プラネットの活動に不可欠なアクターとして捉え、それらによって形成される動的なネットワークを「運動体」として捉えること。そうすることで、プラネットの自主上映活動が「映写・音響機器が常備され、安定して上映用プリントが供給される映画館興行のネットワークとは異質な連関を築く営み」(p.97)であることがより鮮明になるだろう。

渡邉大輔『新映画論 ポストシネマ』(2022)

また映画史研究者・批評家の渡邉大輔は『新映画論 ポストシネマ』(genron、2022年)において、デジタル化による映像文化の変容を、個々の映画・映像作品の画面の変化および観客(視聴者)の受容形態の変化という両面から記述するために、ミシェル・セールが提唱した「準−客体」という概念や、ラトゥールのANTを理論的な手がかりとして参照している。

渡邉によれば、「映画を含むデジタル時代の作品は、主体と客体、スクリーンと観客、作家と素材といった要素がある種の「共同作業」を相互に繰り広げながら形成される、プロセスの総体として考えることができる」(p.416)。

本稿の関心に直接的に結びつく観客論や受容論について言えば、従来の映画研究では、長らく主流の映画上映の形式が観客とスクリーンの間に一定の距離を置くものだったことを踏まえて、スクリーンを受動的な鑑賞のための視覚的な平面として捉えることが一般的であった。だがインターフェースやタッチパネルの普及を通じて、直接スクリーンに触れて映像を操作することが当たり前となった現在の映像環境においては、映像およびスクリーンを物質的なモノとして捉え直し、観客とスクリーンが「触視的」に関わることで生じる相互作用を記述しようとする研究が増えてきている

またそれに伴い、デジタル化以降の映画や最新の映像技術に限らず、古くから存在した触覚性を特徴とする映像表現や視覚装置の系譜を遡る、「触覚性のメディア考古学」(p.372)とでも言うべき試みも注目を集めている。例えば雑賀広海玩具映画の受容における視覚性と触覚性」(『映画研究』12号、日本映画学会、2017年)や福島可奈子玩具映画産業の実態とその多様性」(『映像学』101号、日本映像学会、2019年)、あるいは写し絵や幻燈、連鎖劇など、上映・上演時に手で直接映像を操作したり、歌・語り・音響効果を伴った映写を行ったりする試み——チャールズ・マッサーが提唱する「スクリーン・プラクティス」——を論じた、大久保遼の『映像のアルケオロジー——視覚理論・光学メディア・映像文化』(青弓社、2015年)などを挙げることができる。

雑賀広海は、戦前期の日本で販売された「玩具映画」が、映画館での上映のように一定速度で映写すると明らかにコマ数が少ない(速すぎて視認しづらい)シーンがあることに注目し、玩具映画において「正しい再生速度」はなく、画面に映るものの動きは「玩具映画をまわすこどもの手」に委ねられ、意のままに踊らされたのだと指摘している(「玩具映画の受容における視覚性と触覚性」p.18)。

このように、映像を視覚的な鑑賞の対象としてのみ捉えるのではなく、直接触れることのできるモノとして扱う実践を映画史や映像文化の中に位置づけようとする時、人間・非人間を問わず様々なアクターの相互作用によって形成されるネットワークを記述するANTが、大きな助けとなってくれるだろう。



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