情死:『少年のアビス』を読んで
最近あまり漫画を読んでいなかったが、久しぶりに峰浪りょう氏の『少年のアビス』を読んで嵌まった。
あらすじはWikipediaより以下の通り。
(舞台となった情死ヶ淵は『進撃の巨人』の作者諌山創氏の故郷大分県日田市に実在する場所であり、実際に心中事件があったそうである。)
さて、この漫画を読んでわたしは以前知人に言われた言葉を思い出した。
その言葉というのが
「好きな人ってのは一緒に死にたいって思える人のことじゃあないの。」
確か、恋人がほしいと言ってる子がいて、それを聞いて交際についての会話をしていた時に言われた。
「恋人って、付き合って何がしたいから付き合いたいんだろうね」
とわたしが尋ねたら、
「好きだからでしょ。付き合って何がしたいとかじゃあなくて、好きだから。ただ自分と相手だけの特別な関係がほしいだけじゃあない。」
と返され、
「じゃあ、好きって感情は二人だけの特別な関係がほしいという気持ちなのかな」
と言ったら先ほどの「好き=一緒に死にたい」という考えを言われた。
好きな人と一緒に死ぬことを情死というが、情死は日本特有の習俗である。
日本では近松門左衛門の「心中もの」から始まり、歌舞伎や浄瑠璃、現在社会にその例は多くみられる。
島村抱月の後を追い自殺した松井須磨子しかり坂田山心中事件しかり太宰の心中などなど。
一方ヨーロッパでは情死はあまり取り上げられない。
『ロミオとジュリエット』にしても『トリスタンとイゾルデ』にしても恋人の二人あるいは一人が亡くなるが、情死とは分けが違う。
『ロミオとジュリエット』のラストのシーンでは仮死状態になったジュリエットを見つけたロミオが本当にジュリエットが死んだと思い込み、ジュリエットの傍で毒をあおり死んだが、目覚めたジュリエットは冷たくなったロミオの亡骸を発見して自ら短剣を胸に刺して後を追う。
これは『少年のアビス』の情死を図るシーンを見ればわかるが、明らかに情死とは異質なものである。
澁澤龍彦氏は「情死の美学」の中で、情死を、愛する男女が手をとりあって二人だけの性交の恍惚の極致に、そのまま死んでしまうというイメージ、すなわちフロイトの「死の衝動」の最も純化された、最も洗練された形式であり、愛の究極の形式だと述べている。
『少年のアビス』は窮屈な社会の中で情死という、とにかく困難な男女の愛の最高の理想を見出しているようにわたしには思われる。
三島由紀夫は社会と愛はいつも対立する形のときに美しいと言っていたが、
まさに愛し合う男女が彼らを脅かす社会や他人から背を向けて、自分たちだけの世界に閉じこもり愛を永遠化しようと試みる。
そう、死んでしまえばもう絶対に相手を裏切ることはできない。死は最高の保証であり献身であるのだ。
「好きだから一緒に死にたい」のであり、特別な関係とは結晶化された愛なのかもしれない。