愛をめぐる断片~澁澤龍彦・三島由紀夫を中心に~
知人が言うに
「『だから』が恋であり、『だけど』が愛である
限定が恋であり、譲歩が愛である」
彼女の論に則すると、私の澁澤龍彦氏への気持ちは恋であり、愛である。
すなわち、恋愛なのかもしれない。
常に成長し続ける作家である澁澤さんが好きであり、4回も堕胎させた澁澤さんだけど好きなのだから。
彼女との話をきっかけに愛ついて少し思ったことがある。
愛とは何か。
愛を定義することが困難なのは言わずとも知れたことであろう。
生理学者の説く愛と哲学者の説く愛、心理学者の考える愛の概念、詩人が歌う愛のイメージ、キリスト教の隣人愛、プラトンの愛慕₍エロス₎の説、スピノザの「神に対する知的愛」、孟子の愛の概念との間には驚くほどの相違がある。
また愛の対象によって、母性愛、兄弟愛、同性愛、異性愛、自己愛、隣人愛、遠人愛、同胞愛、神の愛と様々な呼ばれ方をする。
ここでは独断的に、愛についていくつか引用して少し書いてみたいと思う。
まず寺山修司の戯曲『花札伝奇』の歌留多のセリフから
「愛は、『物』ですか?愛は質屋に入れられますか……」
似たもので、スピッツの『運命の人』の一節から
「愛はコンビニでも買えるけれど、もう少し探そうよ」
西尾維新の『偽物語』から
「愛はコンビニで298円で売ってる。」
これらは、愛が人間から自立していて、さも客観的価値があるかのごとく捉えたものと思われる。
愛に価格なんてあるだろうか。客観的価値なんてあるだろうか。
プライスレスだろう。何人たりとも他人の愛なんて評価する権利を持ちえないのだから。
また、愛を知るということは、悟性的認識ではなく、むしろ非合理的なもの、狂気のようなもので、プラトンは「神がかり」と称した。
愛を、さも『物』のように扱うことについて三島由紀夫の発言を思い出す。
三島由紀夫は日比谷高校の生徒からのインタビューで以下のように答えている。
「愛のカタチってものがね、公認されちゃうと純粋でなくなるってことを僕はいつも考えますね。」
雑誌やらネット記事やらSNS、流行歌などで理想の「愛」なんてものが叫ばれて、
その公然とした、公明正大な「愛」を自分が持っていると考えるとき、
その「愛」は世間の作った枠の中に嵌った既製品であり、
コンビニやスーパーマーケットで売ってる「愛」である。
(澁澤さんが言うに、「無反省に『愛』を大安売りするのは、翻訳文学と流行歌であろう。」)
誰かが作り出した、規格品の「愛」を追い求めても、むなしさが残るばかりではないか。
なんせ、それは果てしない愛の欲望への限りのない消費に向かうことになるのだから。
私の崇愛する澁澤龍彦も引用してみる。
「愛とは空気みたいなもので、普段はその存在に気づかないが、稀薄になれば息苦しくなるものではあるまいか」
愛は私たちの生存にもっとも必要なものであるかのようである。
確かに、現実の日常生活で不安や苛立ち、劣等感や罪悪感、サディズムや攻撃衝動を愛によって、無意識のうちに解消している場合は、意外なほど多いのかも知れない。
また、他人に愛された経験の少ない人、あるいは愛の対象を奪われた人が、しばし心の平衡を狂わせる。
最近では「愛着障害」というものもある。
空気がなければ生存できないように、愛もまた不可欠なのかもしれない。
フロイトの話を引用すれば、
「外界の現実の対象によって、愛の要求が満たされている限り、その個人は幸福であった。だが、この対象を奪われ、これに対する代理が見つからないと、神経症になる。この場合、幸福は健康と合致し、不幸は神経症と合致する。神経症の治療は、失われた満足の可能性に対して、代理をあたることのできる運命によって決まり、医師によるよりも容易である。」
たとえば、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは強迫神経症(のような症状)による不安から殺人を犯すが、その後良心の苦悩に堪えず、ようやく淫売婦ソーニャの愛によって救われる。
愛は神経症すら直すことが可能かもしれない。
また愛は、与えるものであっても、与えられるものであっても、どちらでもよく、一方通行であってもいいのもであるのかもしれない。
寺山修司の『人魚姫』から一節
「愛されることには失敗したけど、愛することなら、うまくゆくかもしれない。そう、きっと素晴らしい泡になれるでしょう。」
私自身も、澁澤さんへの一方的な愛のみがこれまでの私を支えてきた。
他にも澁澤さんの引用をする。
「ファキイルと愛とはイコールで結びつくような、まったく価値のひとしい交換可能な認識の対象であった。特定の対象を志向しない愛は、すべてを所有しようとする狂気の欲望だ。だから、それは未熟で純潔だ。」
|《ファキイルはイスラム・スーフィズムに由来する言葉で「托鉢僧・乞食僧・断食僧」を意味するが、ここでは、澁澤龍彦の『犬狼都市』に登場する盲導犬ファキイルを指す。》
これを読むと以前三島氏が述べたリルケの話を思い出す。
リルケの『ポルトガル文』で語られる女主人公はひどい男に出逢って、酷い目にあって捨てられる。だけどなお愛し続けてやまない。彼女は愛しているうちに、もう対象のいらない愛の広野へはしりだしてしまった。
対象のない愛こそ、その純潔さにおいて最高の愛、純愛なのかもしれない。
澁澤さんは次のようにも述べている。
「わたしには、愛は性愛だけで十分な気がする。性愛、すなわち、男女のあいだのエロティックな愛である。その他の愛も、すべて性愛のアナロジー(類比)によって理解し得るように思われる。」
プラトンの愛の理論やフロイトのリビドー学説のように、すべての愛を性愛に還元し、エロスの衝動をあらゆる人間の行動の根本に置くという考え方である。
これについてはこれ以上のくだくだしい話は不要であろう。今回はここで筆をおくことにする。