万博を嫌悪する
自己紹介にも書いたように、澁澤龍彦と同様に私は自身の政治的発言の一切を禁止している。
また、なるべくアクチュアルな事象については、なるべく発言しないことを信条としている。
だけど今回、澁澤が珍しく口を滑らしたのと同様に、万博について書いてみたい。
1970年の大阪万博のとき、澁澤さんは珍しく万博について日本読書新聞に書いた。
「正しく言えば、万博に反対してるんじゃなくて、いいかい、嫌悪しているのさ」
「簡単に言っちまえば、おれは万博の謳い文句の中にある『未来都市』だとか『お祭り』だとかいった言葉が、まず気にくわないのさ。」
「地上に実現される未来都市という観念のなかには、不健康かつ退廃的なものがあるように思う」
「実現された未来都市というのは、たとえモデルであるにせよ、言葉の矛盾じゃないかい。それはすでに未来都市ではなくて、『現在都市』ではないかい。」
等と「万博を嫌悪する。あるいは『遠人愛』のすすめ」の中で澁澤さんは書いている。
「未来と現在との間の断絶を埋め立てて、これを坦々たる地つづきにしてしまうという思想には、断固として反対なんだ。」
「現在と未来をごちゃまぜにしようというのは、とりも直さず管理者の思想だよ。管理者の陰謀だよ。それは必ず、『実現されたものはすべてよい』という、既成秩序の合理化をめざすこよになるんだよ」
と澁澤さんは「万博を嫌悪する。あるいは『遠人愛』のすすめ」の中で書いている。
1970年から約50年、何も変わってない。
「未来社会の実験場」というコンセプトのもとで、万博全体が「未来社会のショーケース」であるなどと述べている。
モデルではあるけれども、展示している時点で既に「現在社会のショーケース」じゃないかい。
50年前と変わったのは、せいぜい都市が社会になったぐらいで、未来と現在を連続的なものとしている。
未来と現在をごっちゃ混ぜにしようとする思想が気に食わない。
私の考えでは、未来は現在と断絶されていて、未来はいつも彼方の闇だよ。
予測可能な未来は未来じゃないよ。
未来などというものは、できるだけ遠くへ、予測不可能な遠くへ押しのけておくに限るのだ。
未来などというものは、手に入れてしまったら、もうおしまい。とたんに味気なくなる。
せいぜいプラトニックな純愛の気持ちで、遠くから憧れているに限る。
また、いったい、万博の広場で私たちが熱狂しなければどんな理由があると言うのかね。
ニュルンベルクのナチス党大会や紅衛兵の運動ならば、背後に党や国家といった神聖なものがあったから、実際の悲惨なことはおいといて、まだ筋が通っていたような気がしないでもない。
だけど、政府や財界が音頭をとる、管理された「お祭り」には、熱狂できない人間が大半じゃないかい。
だって、そこで提供されるのは既製の楽しみであり、ひどく受動的であるのだから。