自殺の影響
先日、話してて久しぶりに昔の友達のことを思い出したので、忘れる前に書いておくことにする。
人間が忘れる順番は「聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚」の順番らしが、僕はすでに彼女の匂いすら忘れてしまった。
でも、まともに、すなおに、胸いっぱいに受け止めた死の痛撃が原因なのか、彼女の最後のことばは脳裏にこびりついている。
「助けを求めるだけ無駄で自らで解決するしかない。誰も信用できないけど、誰かに助けてほしかった。」
強烈な見捨てられ体験、自己の外の対象から見捨てられるというだけではなく、自己と不可分の対象すなわち自己の一部が喪失するような破滅体験を経験し、自分までが自分を見捨てていたように僕には見えた。
僕はどうしてあげればよかったのか。なにができたのか。
精神医学の教科書的解答は
「彼女を丸ごと肯定して、その苦痛を自分のものとして引き受け、慰める」
ということになるのかもしれない。
しかし、僕は今でも何もできないと思うし、できなかった。
というのも、佐々木絢子嬢改め二階堂奥歯嬢は4月26日の自殺する直前にこう書いている。
どれだけ周りが慰めても救けてあげることはできない。
自分自身、本人自身しか救けてあげられないと僕は思う。
その手伝いはできるけど救けるなんてのは傲慢なのかもしれない。
そもそも僕は自殺を肯定も否定もしていない。
フランスの社会学者アルベール・バイエが『自殺とモラル』の中でこう述べている。
ただ言えることは、自殺とはフロイトが「死の衝動」と言ったように、生の本能に背反する、人間性のもっとも非合理な発動であるという事情に変わりはない。
太宰治は女をアリバイに、三島由紀夫はイデオロギーをアリバイに自ら命を絶った。
彼らは死を望んで死んだ。
しかし、普通の自殺者はそうではない。
彼らほど崇高な精神の者がどれだけいようか。
次の文は佐々木嬢が自殺を図った時に書いた文である。
大半の者は躊躇ってしまう。
そんな中、気軽にできるのが自殺の前段階でもあるリストカットである。
リストカットという行為は死を擬似的に体験する行為であり、完全に見捨てられた自分をぎりぎりで取り戻そうとする最後の試みである。
自分を助けようとして行われるリストカットや自殺を止める権利なんてのは誰にもないのではないか。
実際、従来ドイツでは自殺を止めないことは罪に問われなかった。(近年不可罰とされていた自殺関与の一部が処罰の対象になったのは記憶に新しい。)
自殺は悪なのか?
自殺を悪とし、禁止しようとするのは管理者の考えである。
僕らは鶏舎小屋のブロイラーではないのだから、自分の人生ぐらい自分で決めたっていいじゃあないかい。
ラテン語には”memento mori”(死を想え)という言葉があるが、
「いつか死ぬのだから今を楽しめ」
自殺を決心しても別にいいじゃあないかい。
それで救われるなら、それで今を楽しめるなら
寺山修司のことばを借りれば
僕は自殺を肯定も否定もしないけど、やはり死の衝撃はもろに受けてしまうから、なるべく生きていてほしい。(これは僕のエゴイズムだけれども)
だから、僕はいつも決まって
「生きてるだけで偉いよ」
とだけ声をかけることにしている。
色々と書いて話があちこちいってしまい、収集がつかなそうなのでここらで筆を置くこととする。