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 お米の産地 丹波篠山川阪地区の未来

今回は篠来たるでお届けしているお米の生産地、川阪地区について、住民
の方のインタビューをお届けいたします。


川阪とさともんの出会い

 さともんが丹波篠山市に設立されたのが今から10年前の2015年。設立年に地域の皆さんにも目的や活動内容を知ってもらおうと市内でフォーラムを開きました。「地域外の様々な人材の協力を得て、地域の獣害対策や活性化を支援していきたい」という、さともんの想いに即座に反応してくれ、その場で「ぜひ川阪でやってほしい!」と手を上げてくれたのが、当時川阪集落の自治会長だった山崎義博さんでした。
 その後はじめて川阪集落を訪れた代表の鈴木は、日本の原風景のような川阪の美しい景観にすぐに魅了されます。

「川阪集落には、区画整備のされていない田んぼや護岸工事のされていない河川など、日本の原風景のような景色や多様な生物を育む自然環境が残されていて、この集落の景色をどうしても残したかった」

と当時の様子を振り返ります。そして鈴木代表が「川阪のために何かしたい!」と思ったのは、この美しい景観に加え、「この地域を愛し、これからも守っていきたい」と強く願い熱く語る、山﨑義博さんの言葉があったそうです。

そこで、今回、私も山崎義博さんの熱い想いをインタビューするために、川阪に向かいました。

山崎義博さんは、40代に大阪府から川阪地区にUターンし、退職後自治会長に就任されました。

 川阪集落は22世帯で33人が住んでいます。現在30歳以下の人口はゼロです。実は、昭和40年代からこの地の高齢化は進んでいました。戦争で若い人がいなくなり、村に残ったのは老人と女性と子供だけで、必然的に畑の担い手が減り、川は荒れ、田んぼも道も草だらけ。
「ここは10年前までは畑から木が生えてこんな綺麗じゃなかったんよ。道も田んぼも草だらけで、川も荒れていた。」その風景はその集落の人たちにとってごく当たり前の形式でした。
「自治会長になって2年経つ頃、ふとその景色をみて『このままでは川阪がつぶれる』と思ったんよね。」その危機感が山崎さんを代表をつなげることになります。山崎さんが放棄田の解消についてさともんの鈴木代表に相談すると、すぐに集落を訪問。集落の端から端を歩き、荒れた景色を見た代表は一言「山崎さん、問題解消できますよ」と言いました。

 二人が出会ったのは秋。そこからすぐに1年間の田んぼオーナー募集し、翌年の田植えの時期には郊外から来た小学校低学年の子どもの声が村に響き渡りました。それまで村には子供は一人もいませんでした。
「あの、子どもたちの声と笑い声。あれが今でも活動の原点やね。」
それから毎年このプロジェクトで子ども達が川阪に集まり、田植えを行っています。

毎年行っている田植えの様子
泥の中に入ると、不安定なので、足腰を鍛えることができます。
秋には自分たちで収穫します
伝統的な天日干しに。お日様の力でゆっくりじっくり乾燥させることで旨味が凝縮します。

「川阪のどんなところが好きですか?」と山﨑さんに聞くと

「一番好きなのは冬。雪かきは大変だけど、好き。子育てと一緒。大変やけど楽しい。川阪は四季じゃなくて。八季あるんよ。特に3月になるといろんなことを感じたり聞いたりするようになる。鳥のさえずりも川の流れる音も空気の匂いも風の音も全部が徐々に変わってくる。一番違うのは太陽の光だね。暖かい日差しで本当に気持ちがいい。暑い夏の前の雨もまたいい。雨が降る音をききながらお酒をちびちび飲むのが好きやな。」

とお答えいただきました。情景が浮かび、ご一緒したい気持ちになりました。

「獣害対策は何のためにすると思う?」突如、山﨑さんはそう私に聞いてきました。分かっているようで分かっていなかった私。山崎さんからの質問に「正解しなくては!」と思い「自然豊かな里山を守るため?」と安全な答えを出してみました。
「正解範囲大きすぎます?」と聞いた私に、山崎さんは
「いやむしろ小さい。」と答えられました。

「里山というか地域が未来へ続くための手段が獣害。先生(鈴木代表のこと)は獣害が専門ではあるけれども、お互いに生きているもの同士、ヒトも魚も猫も木も一緒に未来へいきたい。人間だけ残ってもしょうがいない。山があって川があって、多様性の社会があって生きていく意味があると。僕もそう思うし、先生も共通した想いがある。多様性も含めて一緒の社会で住みつづける。その想いが今日の活動まで続いてるんや。」

ちょっと照れながら熱い想いを語ってくださる山崎さんの目は燃えています。

川阪活性化委員会を発足

 2016年から田んぼのオーナー制度を始め、一定数の都市部の方が川阪を訪れるようになりました。でも、その内容はイベントが中心で、川阪集落で人手不足となっている獣害対策や草刈りなどの作業の支援活動までできていなかった現状があったといいます。

 そこで、もう一度集落の課題を整理したうえで、地域課題の解決のために何をしていくべきか考えることになりました。2019年川阪集落を活性化するための集落組織「川阪活性化委員会」が発足と同時に、2週間に1度の頻度で関係人口が集まり、みんなで耕作放棄地の活用や獣害対策・草刈り・祭りの運営支援などを行う「川阪オープンフィールド」がスタートしました(次の記事で紹介します)。

当時は「川阪活性化委員会」も、川阪在住の人は一部だけの関与でしたが、体制を再検討して、自治会の一組織として位置づけを明確にしました。

 「それまでは、自治会では報告ばかり、参加者は聞くだけで意見は出なかった。自治会長がトップだからという認識もみんなの中で無意識にあったためか、みんな積極的でなかった。さともんが川阪活性化委員会を発足し、川阪のことについてみんなで話していくうちに、だんだん集落の住民の間でも意見を言いやすい雰囲気になった。いつかの自治会で反対意見がでたときは『よっしゃ。これでいい。これがいい!』と思った。決まったことを報告する前に、みんなで意見を出してたたき台を作るようになった。先生と岡田君(さともんスタッフ)が来てから、変わってきたなぁ。」としみじみと話されました。

同時に景観もこの10年で素晴らしく変わっていきました。
今は畑を見ても、そこに木が生えていたとは思えません。暑い夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれ、鳥のさえずりが聞こえてきます。目の前に広がる田んぼの緑と日本家屋。何故だかとっても心が落ち着きます。川は橋の上からでもどこに魚がいるかが分かるくらい綺麗に澄んでいます。四方を緑に囲まれながら頭の中でと『ふるさと』の歌が流れるような場所が現在の川阪地区の姿なのです。

川阪を第2・第3の故郷にしたい

「さともんとつながってから、川阪に来る人がかなり増えた。川阪に来た人が、観光だけではなく、第2・第3の故郷と思ってもらえるような場所にしたいんよ。10年後20年後、田んぼが荒れていては残りのキチンと整備している田んぼを管理している人がやる気をなくしてしまうからね。
住民とさともん、関係人口とのつながりをつくって、来て遊んで楽しいだけでなく、楽しみながら、ふるさとに帰ってきたような気持ちになる場所にしたい。ふるさとっちゅうところは、何かあったときにお互い気にかけるような人がいるところのことや。支援とはまた違う。心のある場所のこと。セカンドハウスでもいいから、川阪に若い家族が1件引っ越してきてほしいんやなぁ。その想いは先生と出会った8年前から変わらないね。子どもの声は村に活気がでるからね。パワフルやしとても元気が出る。田植えや活動を楽しくして終わりではなくて、楽しみながら川阪支援も視野にいれた作業、特に川阪の人との関わりを感じられる、そういう活動を今後も続けたい。週末に子どもの声が聞こえることが嬉しいね。そのために、僕は本来するべきことをするしかない」とお話いただきました。

「関係人口」とは、移住した「定住人口」でもなく、観光に来た「交流人口」でもない、地域と多様に関わる人々を指す言葉です。
地方圏は、人口減少・高齢化により、地域づくりの担い手不足という課題に直面していますが、変化を生み出す人材が地域に入り始めている例も多くあり、「関係人口」と呼ばれる地域外の人材が、地域づくりの担い手となることが期待されています。

(総務省ホームページ『関係人口とは』https://www.soumu.go.jp/kankeijinkou/about/index.html)


川集落阪で行われた秋祭り。850年以上の伝統を持っています。
人口は減少していますが関係人口が関わって村の伝統行事を支援しています。


 寺総代、草山里山づくり協議会 会長、森林組合 役員、水と環境多面的機能 代表、丹波篠山市社会福祉協議会 副会長 川阪自治会 役員…
今も数々の役割を担っている、山崎さん。インタビューをする中で、川阪への熱い想いが節々に感じられました。

「危機感を感じたら人間は行動に移すしかない」
そう語る山崎さんのアクションがきっかけで、川阪とさともんは出会い、今日に至ります。しかし、どれだけ熱い想いをもっていても、人手不足や高齢化といった問題が常に根本にあり、深く他の問題と絡み合っているという事を実感しました。山崎さんと代表が出会ってから9年かかって築かれてきた川阪の風景も、人手や支援がなければ壊れるのは時間の問題なのです。

(川阪地区については記事2と3でも詳しく書いておりますので、そちらもぜひご一読ください。)

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