子供がいてもわたしだってビール飲みたい
金子平民さんが書いた『ごろごろ、神戸』という本を読んだ。神戸の街を、ごろごろベビーカーを押しながら歩く神戸市公式HPで連載されていたエッセイをまとめたもの。そのなかの、「「母親」を半分引き受ける」という章で
という一文があって、ハッとした。思ったことはふたつ。
母になったからって「お酒のみたい」気持ちを他人によって制限されたくないと思った。と同時に、ショックだった。缶酎ハイ持った母親がベビーカーを押して歩いているのを見たら、隣にいる友人に「えっ?大丈夫かな、あのお母さん」と言う私を容易に想像できる。(男性なら多分そんなことない)動揺した。差別的でない自分でありたいと思っているから。それなのに、自分が母親になったときと、他人として母親という存在を見たときの自分は乖離している。「女性」「男性」という記号で見てしまったり、母性とはこうあるべきというイメージが少なからず自分にもあるのだと思った。
どうして、缶酎ハイを持った母親を怪訝な目で見てしまうのか。
イメージで人を決めつける。くくる。あなたはこういうタイプでしょ?と言われるのが、私自身一番キライなのに。簡単にすると、わかった気になる。知らない自分でいるのは恥ずかしいから「わかった」に浸りたい。ああ、できるだけ差別的にならない自分になるには、先がとても長い。
(こんな風に考えさせれる章もあるけど、『ごろごろ、神戸。』は、いい感じに力が抜けていて、ユーモアがあって、神戸住みたいって思わせてくれる私の中ではヒット本!)
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