【ショートショート】夕凪から
「ラ・カンパネラだ」
俯いた顔には似合わない、日に焼けた肌をした君がそう言った。クラッシックなんて知らなかった筈の君が、今では有名な曲だと分かるようになっていた。
伏し目がちな君の手には、いつも私の知らない本が握られている。私はそれに少し嫉妬しながら、何も言わずにピアノを引き続けた。
日に焼けた肌、髪。曲がった背中。分厚いレンズの眼鏡。
「暗い曲だ」と君が言うものだから、私は手を止め君の方を見た。
「暗い曲だね、確かに」
「うん、でも好き」
「知ってる」
夕焼け色になった音楽室。ピアノ椅子に座る私はこの特等席を誰にだって譲らない。
学校のチャイムが鳴った。この前、学校のチャイムを騒々しい音だと言ったら、海は耳が良いからと笑われた。誇らしく胸を張る私に、羨ましいとも言った。そして、独り言のように強いねと呟いた。
私は強いのだろうか、未だにその疑問が脳の片隅に置かれている。強いのは良いことなのだろうか。君にとっては、強いことも弱いこともどちらをとっても毒と同じみたいに見える。
「続けてよ」
「ううん、今日はもう止め。帰るよ」
「……そっか」
「誰を待ってると思ってるんだ」
そう言った私に、君はごめんと笑った。
空が暗くなるのが遅くなっている、夏至はまだ一週間前だ。ただ、暗いよりは明るいほうが良い。君も笑っている方が良い。
夏服になった制服。肘まで捲っている腕を、リュックの中でゴソゴソと動かしている。ようやく出すと、手に持っていたのは温くなった飲みかけのレモンティー。私にハイっと手渡して、先に前へと歩き出していた。
キャップを開け、一口飲み込む。温いと酸っぱいは気持ち悪く口の中で混じり合う。目の前にいる君は気にしいなくせに、自分の事となると途端にどうでもいいみたい。
温いと酸っぱいは共存出来ないんだと、私は思う。冷たくもない暖かくもない、私達と同じ関係性。甘酸っぱいと思いたいのは私だけ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
決してぶっきらぼうでも無い声が、無表情に思えるのはなんでなんだろう。こっちを見ない君の顔がどうなっているか私は知りたい。
「今日、水泳部終わるの少し早かったね」
「部長が先生帰ったからって早めに切り上げたんだ」
「新しい部長って誰だっけ。山本?」
「そう山本。もう少し泳ぎたかった」
「言えば良かったのに」
「確かに、言えば良かったね」
言えないくせに、とまでは流石に私には言えなかった。当の本人が一番分かっていると思うから。
清野凛音は、出会ったときからこんな男だ。
「2年で一番泳ぐのが速いのは君なんだから、堂々としな」
「速さは関係ないよ」
またそうやって、自分を卑下している。聞いてるこっちが嫌だ。なら、聞かなきゃ良いのにとも思うけど、どうにかして声を出し続けてほしいと願う私はわがままだ。
私は、多分この平穏をずっと味わっていたいんだと思う。氷菓みたいに溶けて行かずに、ただ長くしっとりとした温度だけが続いてほしいと思う。
やっぱりわがままだ。
「ねぇ、今は何を読んでるの」
「ヘッセ」
「ヘッセ?ヘッセっていう題名なの?どういう意味?」
「ヘッセは作者だよ。題名は車輪の下」
「ふぅん」
私の生きてきた中じゃ知り得なかった名前だ。読書もしない私と君の間には、大きい差があるのだろうか。なんて思っている。
住宅街に隙間風みたいな風が流れ込んだ。私の夏服が揺れ、スカートも揺れ、凪いでいた筈の空気が風ひとつで涼しく感じた。暦では夏だけど6月はまだ春と夏の間っぽい。春っぽい風、決して春じゃない風。隣から見る君の横顔が、一年前の春に見たときよりも優しく見える。
高校一年生になったばかりの頃。桜はもうすでに散って葉桜になった時期だった。音楽室で勝手にピアノを弾いた後の帰り、凛音がプールに頭を押し付けられていた。プールには沢山の大きい泡が出来ては消えていく。苦しそうに藻掻くのを、私よりもそれに凛音よりも一回り体が大きい体の人達が手を叩いて笑っていた。周りに止める人なんて一人も見当たらなかった。もちろん私もだ。同級生やその他の先輩、先生も居ない。凛音は一人だった。
一人ぼっちって言葉は大嫌いだ。一人ぼっちってのは皆と一緒に居たいけど居れないやつか、一人ぼっちになりたくない人間かどちらかが嘲笑するために使う言葉だと私は思っていたからだ。
多分、あの時の凛音も私も別に一人が嫌いじゃなかったはずだ。一人は彼にとって安寧だったように思う。ただ、それでも同じ匂いを知って、同じ温度を知ってしまったのだ。私が彼にそれを教えたのだ。他の人には冷たいと思われるくらいの温度かもしれないけど、私達には充分温いと思った。だから、一年付かず離れず居れたのだと思う。
「何で話すようになったんだっけね」
私は、凛音に夕焼けがチカチカと燃えるように凪ぐ海に光っている様を感じた。音楽をするやつはイメージ力、想像力はとても強いんだと思う。それは自分だけの考えだけど。
「海がつまらなそうに僕の隣に座ったからじゃん」
そうだっけと返すと、そうだよと笑って言った。
帰り道に出来た家の影に隠れて、私達は足音を立てずに歩いている。何かに怖がっている。
「それで、僕が読んでる本の題名をつまらなそうに聞いてきた。僕が題名を言ったら、またつまんなそうにふぅんって言ってた。今日とおんなじ」
読書をする習慣もなければ、教養だってない。私が唯一まともに読んだのは、国語の教科書に乗ってた夏目漱石のこころくらいだ。
当時の私は、今の私と同じくらい凛音という存在を知りたかったのかもしれない。凛音を知ることが出来れば、私はもう少し私のことを知ろうと思えたのかもしれない。結局私は昔から変わらない傲慢さで凛音に近づいたのだろう。ただ、今となるともうそんな事どうだって良くて、凛音とのこの空間が欲しい。
私は自分のわがままで頭がぐるぐると回っている。
汗の匂い、Y字路、手を振る君。
私には音楽と君がいればいいなんて思った。
最近も暑さに変わりはない。寝苦しい夜が私の生活を蝕んでいる。9月になってもまだまだ暑いこの頃、私は起きがけのベットの上、一人ぼっちの日常を少し寂しく感じている。
私は一人ぼっちだ。
枕に埋もれたまま、コンタクトの付いていない目で見える世界のボヤケに安心した。見たくないもの、見えないもの、見たいもの。どれも物理的に見えなくしてしまえば、全部変わらない。ただ、頭に浮かぶ彼の横顔だけはどうしても鮮明に見えてしまうのだが。
凛音は、帰り道のY字路で別れたあの6月中旬に居なくなった。というか死んでしまった。
結末は簡単だ。トラックが死角になった凛音を轢いたのだ。運悪くなのかどうかは私には分からないけど、人通りの少ない道だったためか、病院に搬送されたのは轢かれてから約一時間半後だったらしい。そのまま、彼は息を引き取った。
それを知った私の絶望感たるや、何にも言い難かった。私に必要だった、平穏や温度が簡単に失われてしまった。
私に残ったのは、音楽と君との少し淡くて温い記憶だけ。その記憶でさえ、いつの間にか溶けそうになるのだ。
私は一人ぼっちという言葉を嫌っていたはずなのに、今では自分もそちら側に居ることを自覚してしまった。他の誰かは要らない、彼だけが居ればよかったのに。
台所から母の声がした。一人ではないのに一人なのはどう考えても気持ち悪い。昔はそんな事思ってなんかいなかったのに。
どうやったって過ぎる毎日を、放棄することもできずに嫌々、凛音との思い出が溢れる学校に通う。いや、私にはもしかしたらそれが必要だったのかもしれない。
私は最後の日と同じ夕焼けの時間に、彼が泳いでいたプールに向かった。水泳部が居なくなったのを見計らって忍込み、ほんの少しの風で揺れるプールを眺めていた。
鞄からイヤホンと本を取り出した。イヤホンを耳に当て、流したのは凛音が覚えている数曲のクラシック。ローファーと靴下を脱ぎ、その足をプールの中に突っ込んだ。膝には最後の辺りに読んでいた小説を置く。
小説を、私はまだ一度たりとも読んでいない。買ってから数ヶ月と経つけど、読もうと思えない。少しでも彼を知ることができるかもしれないけど、知りたいと思えなかった。
変わらずわがままだ。そんな私のエゴを凛音はいつだって許し続けた。私はそれに甘え続けた。
プールの水は、私にはちょっと冷たすぎる。ただ、現実に引き止める冷たさだ。
私は凛音の何かを知ることが出来ていただろうか。
結局、私も一人が嫌なだけだったんじゃないか。
彼の好きな曲が流れる。それと重なるように学校のチャイムが鳴った。
夕焼けが映るプールが彼と重なって、私から溶け出した涙がとても熱い。
今になって、私は彼をとても知りたいと思った。