棘ある薔薇と、絵を描かない画家の話
「あたしの絵を描いて」
――彼女がそう言った時、僕は、まるで星の王子さまみたいだな、と思った。
机の上に広げていた、数学のノートを閉じる。
「……悪いけど、そこまでうまくないんだよ。」
少しだけ間を置いてから、僕は彼女にそう言い聞かせた。
星の王子様に、絵心がないんだといった、飛行機乗りみたいに。
「でも、いつも一杯描いてるじゃない。いいでしょ。一枚ぐらい。」
傲慢に笑う彼女をみながら、どうしてこうなっているんだろうか、と心の中でひっそりため息をついた。
夏休みの補講はもう終了しているのだ。
ほかの生徒はもうみんな家に帰っているのに、僕だけ、このわがままなクラスメイトに捕まってしまっている。
不公平だ。とても。
「……描いてたって、絵がうまくなる奴ばかりじゃないんだ。わかるだろう?」
ぺらり。
数学のノートの下に隠してあった、ルーズリーフを引き出そうとする彼女の手をすげなく払って、そう言い聞かせる。
「わからないわよ。」
なのに、あっさりとした言葉で、彼女はそう言い切った。
艶やかな黒髪が、窓から吹き込む夏の風にたなびいて、クロアゲハの鱗翅のような美しさを誇っている。
その美しさを添え物にしてしまうほど、暴力的なまでに美しい美貌が、こちらの話を聞こうともしない彼女のわがままを、鮮やかな美として演出している。
言っていることがどれだけ子供のようでも、美しさという武器は、ただそれだけで人を黙らせるために十分であることがある。
そして、理屈を押しのけて、子供のような言い分を飲み込ませるだけの美しさが、彼女にはあった。傍若無人なその美しさは、星の王子様というより、わがままな薔薇を思わせる。
「……僕の絵は、いいものじゃない。寂しくて、悲しくて、どうしようもない、汚くて、下手な絵だ。だから、描きたくない。」
彼女の、無造作で無遠慮な行動を退けるために、僕はひどく長いこと考えてから、そう告げた。
言い終わってから、言わなければよかったな、と後悔する。
それでも、それが卑下でもなんでもない程度には、僕の絵は、下手なのだった。
作品を提出すれば、美術の先生の顔が引きつり、通信簿の欄には燦然と1が輝くことになる。
配色センスは壊滅的で、デッサンはまるきり基地外の沙汰。
絵をかくたびに、下手だとはやし立てられるばかりだ。
笑顔の絵を、幸せな絵を描きたいのに、どんなに笑顔をかいても、悲しげだといわれるような絵ばかりが手元にかきあがるような状況なのだ。
そんな奴の絵を欲しがったって、いい事なんて一つもないということは、どう考えたって明白だ。
「あたしはアンタの絵が欲しい。」
なのに、彼女は自分を曲げやしない。
意志の強そうな、黒くてすっきりした太い眉は、まるで言い分を曲げるつもりはない、と言っているかのようだし、美しい黒い瞳は、こちら見据えて、そらされることがない。鋭い矢のようだった。
「……どうしてそこまで言うんだよ。」
「あんたが絵が好きだから。絵を、大事にしてるから。」
はっきりとした、美しい声が明瞭に告げる。
透き通るガラスのような激しさと、美しさで。
「あたしは、あんたの大事にしてるものが、ほしい。どれだけつたなくても、ほしい。――あんたが好きだから、あんたの好きなものが欲しい。」
存在そのものが一流の絵のような少女はそう言い放って、勝気に笑う。
滑稽な話だ、と、心の中で笑った。
とびきり美しい絵のような少女が、僕の絵を望んでいる。
僕の絵を気に入ったからではなくて、僕の身代わりとして。
こんなに傲慢で、人を食った、滑稽な話はきっとどこにもない。
「それは、僕の絵が欲しいってことじゃない。僕の絵に、価値を見出してるわけじゃない。」
ばかにするなよ、と、むっくりと腹の中でもたげてくる、毒蛇みたいないらだちを口から吐き出した。
天使を書こうとして、化け物だと罵られた記憶が頭をよぎった。
優しい笑みの少女を書こうとして、泣き叫ぶ幽霊のようだと言われた思い出が腹を焼く。
どうでもいから、放っておいてほしかった。誰にも迷惑をかけずに、絵を描いているだけなのに、どうして邪魔されなくちゃいけない。好きだか何だか知らないが、恋愛気取りのままごとなら他所でやってほしい。不愉快だ。
「だったらかいてよ。あんたの絵に価値をつけるために、あたしにアンタの絵を描いてよ。」
なのに、彼女は鮮やかにそう言い切って、こちらの言い分を耳に入れるつもりはない。
それどころか、華奢な手が、机とノートの隙間にするりと滑り込んで、そのままルーズリーフを奪い取る。
「あんたが熱っぽい目でかいた、この絵みたいにさ。」
僕から奪いとったルーズリーフをひらひらと弄ぶ彼女は、まるで性悪な、美しい猫のようだ。
「……あたしを描いてよ。」
ちゅ、と目も当てられない醜い絵に、キスを落として、彼女は僕にそう囁いた。
(誰よりなにより真っ直ぐな。)
(――あんたのその眼が、あたしは一等好きだから。)
(だからその眼で、あたしを描いて/みてよ)