理想の家に君はいない
梅雨に入りたての、夕暮れだった。
雨が降っているのを、保健室の窓からそっと眺めていた。
コンロで沸かしたヤカンが、沸騰したのを知らせる、甲高い音を立てたのにきづいて、火を止める。
ガラスでできたコーヒーサーバーに、お湯を注いでおく。器を温めておくだけで、味がだいぶん違うものだ。余計な苦みが少なくなる。少し温めてから、お湯を捨てて、ドリッパーと、コーヒーフィルターをセットしてから、コーヒーをきっかり20グラム量っていれて、トントン、と軽く鳴らしてから、お湯をゆっくりと注いで、蒸らしていく。
「先生、相変わらずこだわるんですね。」
「僕はコーヒーだけは、手を抜けないんだよ。人生がかかってる」
「うそばっかり。」
やわらかい声でそう言われたので、おどけて見せると、彼女はあどけない声で笑った。保険医になってからこの方、彼女とはよく顔を合わせている。それだけ怪我と病気が多いということなので、あまり喜ばしい事ではないのだけれど。
「ねんざ、どう?」
「まだ少しだけ痛いです」
そういって、彼女は自分の左足首を少しさする。彼女に階段から足を踏み外しました、言われたときはは肝を冷やしたのだけれど、幸い頭を打つこともなく、足首をひねっただけで済んでいて、胸をなでおろした。彼女は何かと怪我が多い。ドジなんですよ、とは本人の言だった。
「そっか。今日は部活は?」
「美術部なら、今日はないです。」
午後六時をさした、壁の時計を眺めながら、静かに尋ねると、彼女は穏やかに首を振ってそう答えた。
「なるほど。じゃあ、バスの時間まで、ここで休んでいきなさい。――はい、コーヒー。」
ゆっくりと抽出されたコーヒーをマグカップに注いで、差し出せば、彼女はほっとしたように微笑んで、マグカップを両手で持つ。
「はい。……ありがとうございます。」
「どういたしまして。あついから気を付けて。」
と、言うまでの間に、さっそく舌を火傷したらしい彼女が、熱そうに小さく口をパクパクと開く。水槽の中で買われた金魚のようなしぐさだ。
「いうのおそいですよせんせい……」
「みたいだね、ごめん。」
ひっそりと恨めしげにこちらを見つめる彼女に苦笑いしながら答えて、コーヒーを啜る。ブルーマウンテンの落ち着いた苦味が口の中に広がる。会心の出来だ。久しぶりにいいコーヒーを淹れられた気がして、くすりと笑った。
「……あ、そういえば、今、美術部でなにをかいてるの?」
「家の絵です。」
それから、ふと思いついて問いかければ、彼女は少しだけはにかんで、そう答える。
「どんなの?」
「ええと、普通の家です。赤い屋根で、洋風で……。ええと、ラフ、があるんですけど、見ますか?」
「うん。見せてほしい。」
そういって、学生カバンから取り出されたスケッチブックには、素描ながら精緻な筆致で、家の絵が描かれていた。小ぢんまりとした洋風の家で、白い柵に囲まれて、慎ましやかなキキョウや、かわいらしいコスモス、気品高いダリアなどが、鉛筆で描かれている。
「上手だね。……君の家?」
のんびりと尋ねれば、彼女は少しだけ迷ってから、いいえ、と答えた。ではご近所の?と尋ねれば、それも違います、と彼女は首を振った。
「私の家、というか。理想の家、なんです」
気恥しそうに、少しだけうつむいて、彼女はそう答えた。栗毛色の髪が、形の良い頬から顎のラインをそっと縁取る。
「こんな家に、家族が住めたらなって」
マグカップを両手に抱えてはにかむ彼女は、きのせいか年齢よりもずいぶんと幼い子供のように見えた。
「子供っぽいですか?」
「ううん。いいんじゃないかな。素敵な家だよ。」
そういえば、よかった、と彼女がほっとしたように胸をなでおろした。
「いつも、家の絵をかいてるの?」
「部屋の絵とかも、かきますね。家の中を、想像して。」
「ふうん。……すごいね、本当にこんな家があるみたいだ。」
スケッチブックを、ひらひらとめくっていけば、どれもこれも、精緻な筆致で描かれた家と、その内部の絵だった。
思わず寝そべってみたくなるようなベッドの描かれた寝室や、サッカー用のユニフォームなどが置かれた、少年らしい部屋に、きっと父親が使うのであろう書斎、ソファに座っておしゃべりのしたくなるような、品のいいインテリアの置かれた、手入れの行き届いた居間と、大きなオーブンの作りつけられた、使い心地のよさそうなキッチン。
それから、季節ごとに咲く花や茂る木々の様子がの変わっていく、美しい庭や、テラスから見た、穏やかな街の風景などが、暖かな思いのこもった、優しい筆致で描かれている。白黒故の、素朴な親しみが、そこにあった。
「子供のころから、こんな家があったらなって、想像を膨らませて絵を描くのが、好きだったんです。兄の部屋はここで、父はここで、母はここでって。」
「それで美術部に入ったのかい?」
「はい。大きなキャンバスにかくのが楽しくってしょうがなくって。今は、顧問の先生にもほめていただけるようにもなりましたし。」
コロコロと、鈴を転がすように微笑む彼女につられて、僕も笑いながら、コーヒーを飲む。
「そっか。素敵だね。」
そういって笑いながらスケッチブックをめくる。玄関から裏口、お風呂場まで、何もかも、まるで家の写真をたくさんったみたいに、丁寧な筆致で描かれていて、本当に家の中にいるようだ。
「――あれ、でも、自分の部屋の絵は描かないのかい?」
ふ、っときづいて、彼女に尋ねかけた。暖かな絵の中には、なぜか彼女のための部屋と思しき絵が、一つもなかったのだ。
「なに言ってるんですか、先生。」
問われた彼女が、不思議そうに首をかしげる。
「家族のための家なんですよ?私の部屋があるわけないじゃないですか。」
そうして、あっけらかん、とした笑顔で、そういった。
本当に、当たり前のことを言うような調子で。
「あ、もう七時!――長居しちゃってごめんなさい。」
それから、時計を見て、いけない、とあわててコーヒーを飲み干して、立ち上がる。
「せんせい、手当、ありがとうございました。さようなら。」
そうして、あわただしくスケッチブックをカバンにしまって、マグカップを流しに片づけてから保健室を出ていくのを、僕は茫然としながら見送った。
――見送ることしか、できなかった。
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