砂糖菓子の地獄
月がきれいだったので、家出した。
……脈絡がないが、そうとしかいえない。
突如としてどこかに逃げ出したい気分に駆られ、気が付けば兄に出ていく旨を告げて、電車に飛び乗っていた。
空はよく晴れていて、家出には絶好の日和だった。ナップザックを背負って家出って年でもないし、俺は学生どころか童貞ニート三十路間近なのだが、ともかく俺のような屑にはもったいないぐらいの門出だったと思う。
家族にはメールアプリで連絡だけを入れておいた。うち込んだメッセージには、返信どころか、既読の一つも付かない。
いつものことである。というか社会人は家族であろうとニートの動向なんて気にしていられない。だってみんな忙しいのだ。すくなくとも、製造ラインで歯車になったチャップリンとおんなじぐらいには。
そんなわけでリビドーの赴くままに電車に乗り、終点につくたびに乗り継ぎつづけて、気が付けば海が見える場所まで来ていた。切符が足りずに、改札口で料金を支払ったら財布は空っぽ。一円どころかゴミもない。いっそすがすがしい。
そのまま、適当にベンチで野宿して、一日たった。
蚊に刺されたが、それ以外は五体満足である。
平和なものだ。名前も知らないが、平和でよいまちである。体の具合もすこぶるいい。最高のコンディションという奴であろう、と思ってよく晴れた朝焼けの空を見る。
――ぐう、と腹が鳴る。
訂正、空腹以外は最高のコンディションである。
さて、平和だったのはそこまでである。
財布が空の俺は、家に帰れない。
しかし、迎えに来てもらおうにも、アプリに返信はない。既読もない。ついでに履歴書を買う金もない。八方塞がり。
ありていに言おう。
野垂れ死にまったなしだった。
ゴミ箱をあさろうと思ったものの、清潔で整ったこの片田舎にはそんなこともできないほどに規律がしっかりしていて、ごみ箱をあさる暇すらない。皆時間きっちりに朝早くからごみを出して、収集車はそれを悠々と片付けていくので、なかなかゴミ袋をあされない。
夏だから凍え死にこそしていないものの、飯が食えないのでみるみる肉は落ちるし、腹はすきすぎて痩せこけるし、スマホは充電が切れて使い物にならなくなった。警察に連絡してもらおうかとも考えたが、恐らく連絡を入れても家族に対応してもらえない気がしてさっくりとあきらめた。こんなクソニート、之タレ人でくれたほうが楽だろう。
自販機の隙間の小銭を拾ってパンを買ったりとか、窃盗を承知で畑泥棒をしたり、野草を細々と見分けて腹を壊して死にかけたりと、なかなかアグレッシブすぎる体験をこなしていったオレは、結局地面に放り出されて野垂れ死に、そのまま身元不明死体まったなしだった……はずだったんだけれども。
「アールグレイは嫌い?」
「いやうまいけど。」
なんでこんなことになってるんだと思いながら、俺に紅茶をいれてくれた少女に、首を振ってそうこたえる。それならいいのだけど、とのんびり笑った彼女は、膝丈までのシミ一つない真っ白いAラインワンピースに、空色のボレロを身に着けていた。
「何か思い悩んでいるようだったから、心配してしまったよ。」
ビスクドールが裸足で逃げ出す勢いの美少女は、白雪という。道端で死にかけていた俺は、彼女に「君を猫にしてもいい?」と問いかけられたのち、返事をするまもなく黒塗りのリムジンに放り込まれ、風呂に放り込まれ、点滴と食事を取らされて今に至る。なお、腹が減りすぎて、昨日までおかゆ生活だった。ジェットコースター並みに落差のある展開だ。ふざけてるだろ人生。なにがどうしてこうなってるのかさっぱりだ。
「お前が何を考えてるのか考えてた」
「愛の告白みたいだね、猫さん。」
「頭砂糖菓子か?」
「箱入りなんだよ、マイスイーティ」
甘やかにわらい続ける彼女は、美しいという以外の表現に困るような容貌だ。美人って特徴がない顔立ちだっていうのは事実らしく、しいてあげられる特徴は、絵本の白雪姫が嫉妬する勢いで艶のある、手入れの行き届いた腰までの黒髪ぐらいだ。名前が体を表している好例ってやつ。
あとは肌も白い。抜けるようなという言葉を実在の人間に適用する日が来るとは思わなかった。
あとはまぁ、その美貌を一切損なうことのない、ぎこちなさを一つも感じさせない、品のいい所作も特徴と言えば特徴だ。
頭のおかしい行動を除けば、紋切り型と言っていいような箱入りお嬢様の姿であろう。
畢竟、俺には一生縁がない人種。
「でもまさか宿無しを拾って猫にする日が来るとはね」
――訂正、頭とすこぶる口が悪いのを除けば箱入りお嬢様だ。というか、宿無しって古風な言い方である。今のご時世に聞くことになるとは思わなかった。人生って不思議。
「俺もお前みたいなお嬢様に拾われる日が来るとは思ってなかったよ。」
「お互いにフレッシュな出会いだったってわけだ。――はいどうぞ。」
「ありがと。しかしひどいフレッシュだな。人間を猫にする趣味のお嬢様と社会不適合者とか。」
首にはめられた、真っ赤な首輪についた鈴を弄り回しながらそういう。
それをくすくすと上品に笑いながら、彼女は瑠璃色のティーポットでお茶を入れ、胃袋にやさしそうなゼリーが盛られた皿をお茶うけにだしてくれる。
首輪を除けばまったく、絵本めいた情景。現実味をまるきり削いだ空間。頭が痛くなる。ネットの海に氾濫してる娯楽小説だって、今日日こんな都合のいい展開を提示してはくれない。『道端で死にかけてたら美少女に拾われました』なんて、夢見がちを通り越して狂人の域だ。ふざけてる。
「どんな出会いも楽しむべきさ。私みたいに老い先短い身だとね。」
「人生悲観しすぎだろローティーン。」
若いを通り越して、幼いといっていいみためのくせなにいってるんだ、と呆れながらお茶を飲む。甘い。ミルクたっぷりの紅茶は、こってりしていて、いい感じにダウナーになれる。
そのダウナーさとは反対に、さっぱりと言い切る白雪は、どこ吹く風という様子でシニカルに笑う。外見に見合わぬ冷淡さだ。クールビューティーって言葉が実にはえる。かわいげのなさも折り紙付きだけども。
「いやだな、もう人生の佳境さ。徒然草の著者は、三十までに死んでおくのをすすめたんだよ?」
「それはオレに対する早く死ねというコールだと解釈するがよろしいか。」
「あはは、死にたいなら我が家の外で死んでよ。猫なんだから。」
生きることに対して不真面目そのものな発言に、ひがみまじりに絡むと、バッサリといいきられた。清々しいほどにあっさりしている。
「ひでぇな。ドライモンスターかお前」
「死体遺棄も事情聴取も手間だもの。剥製にしてもいいんだったら引き受けるけど。」
打てば響くような返しだった。というか俺の死体を隠匿する気満々である。犯罪ですよお嬢様。
「猟奇的すぎるだろ。つーか、死亡届と埋葬ぐらいしてくれ。」
「えー。いいじゃないか。人間の死体って面白そうだもの。一体ぐらい手元に置いといたって損はないよ。」
玩具を扱うような様子で、架空の死体が扱われる。想像とはいえ、悪ふざけというには白雪の眼は呆れるほど澄んでいて無邪気に過ぎる。頭のネジが全部緩んでるんじゃないかって勢いだ。不謹慎って突き抜けると清々しいとか初めて知った。
「腐るんじゃないのか。というかそのために俺を拾ったのか?怖いな、どこの殺人鬼だよ」
「いや別にそういうわけじゃないよ。ただほら、話し相手に困っててね。この屋敷、私と使用人以外は誰もいないから。」
悪びれもなく宣われた彼女の生活は、絵本のお姫様も真っ青な環境だ。
「は?学校は?」
「通信制。体育のスクーリング以外は引きこもれるってわけ。」
学校が嫌いな学生が夢見そうな現実に住んでいる相手を羨望のまなざしで見る。素晴らしいほどに完成された社会不適合生活。うらやましい。
「あれか?金持ちニートってやつ?」
「そんなところ。だからまぁ、人間一人ぐらいだったら飼えるのさ。」
飄然と宣う彼女に、げんなりとする。だだっ広い屋敷に少女が一人。男を飼い猫にして引きこもる。文面の破壊力がプラスチック爆弾並みだ。ひどく狂った環境。社会不適合者のオレが言っていいことじゃないけれど。
「倒錯的だな。」
「金と暇を持て余した人間はみんなそんなもんさ。」
「悍ましい事実すぎるだろ。……まぁいいや。好きなだけいさせてもらうぞ」
「どうぞお好きに、私の子猫さん」
人間の屑の極みみたいに言い捨てても、彼女はそういって、甘やかに笑うだけだった。狂った状況だ。でも都合がいいのも呆れるほど確かだった。けっと言い捨てて、紅茶を飲み干し、立ち上がる。
状況は呆れるほどくるっていたが、とにかく好きにすることにした。
なにもかわらない。逃げ出した先で、変わる鳴り終わりなりを手に入れようと望んだ結果はもとのニート生活。いや、飼い猫生活だ。悪態をついてやりたくなるほど、俺に対して世界は甘すぎる。地獄みたいだ。そのドロドロしたやさしさの十分の一でもいいから他人に分けてくれ。
充電の澄んだスマホのアプリにいまだに既読の文字は一つも付かないことも、自分がニートであることも、猫として買われていることも、何もかもが屑みたいにくるってる。
だけど、窓から差し込む明るい午後の日差しは、あきれ変えるほど清潔に室内を照らしていて、紅茶は悲しいぐらいに甘くて上品で、おかげで甘さにのどを痛めつけてもらうことさえできない。
そのすべてに目をつぶって、オレはただ、紅茶を飲み干す。
それでも世界は、何ら変わらず、狂っていた。
まるきり、地獄みたいに。
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