アクア・ルーム

 水の音がして、俺は目を覚ます。喉に何かが詰まったような心地になる。ここで目が覚めたときはいつもそうだ。

 天井を見上げれば、真っ青な水面が目に映る。天井から床まで、すべてがガラス張りの部屋のまわりを、深い水と、色とりどりの魚達が泳いでいる。

――また夢のなかに来たのだ、と静かに思う。

「おはよう。ハーブティーはいる?」

 明るい無邪気な声が届いて、俺は横たわっていたすみれ色のソファの上から起き上がって、声をかけてくれた彼女をみる。

 栗色の髪に、赤みがかったカーゼルの瞳をした彼女は、ガラスのテーブルの上で、ティーポットからカップに空色のお茶を注いでいるところだった。

「うん、欲しい。」

 彼女のといかけにそう答えて、俺ははちみつをたっぷり入れた空色のお茶と、白いお皿にのった貝殻の形をしたマドレーヌをうけとった。

 オレンジピールの入ったマドレーヌは甘酸っぱくて、懐かしい味だった。夢のなかで懐かしい味も何もない気がするけれど、この部屋には、まだ歳が片手で数えられるときから来ているので、間違いではないはずだ。

「少し疲れてるように見えるよ。」

「そうかな。自分じゃよくわからないんだ。」

 心配そうに首を傾げる彼女に向かって、俺はそっと笑いかけてそういうと、そんなものなのかなぁ、と彼女が少し寂しそうな声で言う。天井を見上げれば、水面の上に波紋が無数に散っていて、ああ、雨なのだと思う。

 誰かが泣いているのかもしれないな、と思いながら、大分くぐもってとどく雨の音に耳をかしげながら、空色のお茶を飲む。夜明け前の色をしたお茶を。

「君、あまり泣かなくなったね。疲れると、よく泣いていたように思う。」

「鈍くなったんだ、きっと。でも良いことだ。泣いたって誰もこない」

「そっか。さみしいね」

 彼女がそういうので、俺もさみしい気がしたのだけれど、鈍くなった心は、それが本当に寂しいということなのかを理解できなかった。

「……これは、やっぱりさみしいことなのか?」

「少なくとも、私にとってはね。でも君にはよい事だったんだろ?」

 穏やかな声に、責められているような心地になった目を伏せる。青くすんだお茶は、何処か冷たい色をしている。

 いいこと、そうだ、いいことだった。でも、いいことってなんだろうか。よくわからない。俺は馬鹿なので、しかたがないのかもしれない。俺は生まれた時から馬鹿犬なのだ、多分。皆がそういっている。

「……ああ、いいことなんだ。多分。みんなそう言ってる。」

「そっか。それじゃあきっと、大丈夫だね。」

 彼女はそう言って、飲んでいたティーカップをテーブルの上において、俺の頭を撫でる。彼女の小さな手は柔らかくて、ほっとする。

「そうかな、でも、なんだか、死ぬまで埋まらないような気がするんだ。どうしても。不安が拭えない。」

「埋まるよ。君が、此処にちゃんと帰ってきてくれたんだから。」

 その言葉に、長いこと此処にきていなかったのをおもいだした。穏やかな青と、静けさと、優しさの満ちたこの場所を随分と離れていたと思う。

 夢のなかに耽溺するのは罪深いことだったから、俺は此処を離れていなくてはならなかった。それが夢の外の決まりだったので、仕方がなかったのだ。

「……俺がいなくて、寂しくなかったか。」

「ひとりなのはいつものことだから。でも、少しだけ苦しかった。」

 穏やかな声で、彼女が笑った。寂しげな目。この穏やかな部屋そのもののような目。彼女は出会った時から変わらない。髪の毛は伸びないし、年を取ることもない。穏やかな夢のなかに住むこの人の正体を、俺はろくにしらない。

 そっと俺の頭をなでてくれていた手に自分の手を添える。小さな手。この穏やかな夢を整えているとは思えないほど、小さな手。

「此処にずっといられたらいいのにな。」

「じゃあいればいいんだよ。」

 嘆息すれば、彼女は当然のように朗々と告げた。明るい言葉に、思わず頷きたくなってしまうのを、ぐっとこらえた。

「できないのを知っていて言うのはずるいぞ。」

「だっていてほしいもの。」

 唇を尖らせて抗議すると、彼女はいたずらっぽく笑う。その言葉が、本音であるのを知っていたけれど、そっと目をふせる。そうしないと、うなずいて、この部屋から出れなくなってしまう気がした。俺は弱い人間だから、これ以上甘やかされると、きっとそうなる。

「俺がきちんと、強くなれるまでまってくれ。」

「私は君が弱くたって、嫌いにならないよ」

「俺が許せないんだ。」

 いじっぱり、と彼女が笑うので、君に似たんだ、というと、それじゃあしょうがないね、と彼女がまた笑った。

 穏やかな夢を俺のためだけに紡ぎ続けてくれる彼女の献身が、愛おしいと思った。俺は彼女がすきだ。それだけがたしかにわかっていることだ。夢のなかの住人を愛することが、どれだけおかしいことでも、俺は、この人がすきだし、この人と幸せになりたかった。

 馬鹿な恋をしている。

 自分に恋したナルキッソスよりも、ずっと馬鹿で、ひどい恋だ。

 エゴしかないような。

 それでも、諦められない、恋だから、仕方がない。

 ――ああ、夢からまだ覚めたくないな、と思いながら、マドレーヌを一口かじった。

 雨はまだ、降り続いている。

 泣き止まない、子供のように。


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