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君の値段
「――俺の命を、十億円で買ってくれないか。」
目の前の彼がそう言いだした時、ついに頭のねじ外れたかと思った。そのあとで、あ、こいつ元々ネジなんぞはいってなかったわ、スポット溶接してるんだったわ。と謎の完結を見せたのが二秒後だった。
窓を見れば、外では雪がしんしんと音もなく降り積もっている。
「そんな金、あると思うのか。」
「思わないが。」
「だったら聞くなよ。くだらない。――っていうか、なんでそんなこと聞くんだ。」
溜息を吐いて、彼が入れたコーヒーを飲む。ぬるい。まずい。気取り屋の彼ときたらあいも変わらずコーヒーをいれるのが下手なものだから、馬鹿みたいに苦かった。元々コーヒーは苦手だけど、こいつは一等酷い。
そのまま話を切り上げてやろうと思ったのに、つい、そう付け足したのは、彼が少し寂しそうな顔をしていたからだった。
「いや、お前は俺の命にいくらつけるんだろうと思ったんだ。」
「またくだらないことを考えたな、馬鹿。そもそもいきなり十億は多すぎだ、馬鹿。」
あんまりにも呆れたことを考えているので、二度も馬鹿と言った。どういうわけだか、彼に限って――普段も口がいいとはあまり言えないけれど――この口はうまいこと喋ってくれない。
「二度も馬鹿というのはひどいじゃないか……いくら俺でも、傷つくぞ。」
「初耳だ。おまえの心はアクアマテリアルでできてるんだと思ってた。」
ふてくされてみせる彼をまじまじと見つめて答えれば、彼は首をかしげている。
「なんだよ、その、すごくかっこよさそうな物質。」
不思議そうに尋ねる彼は、アクアマテリアルがわからないらしかった。何かを尋ねるときの彼の顔は、ちっとも気取っていなくて幼い。
彼の太めの眉の下のクリッとした黒目は、ふくふくした虎猫の眼を思わせる。虎猫は好きだ。よい友人である。猫しか友達がいないともいえる。
「水でできたプラスチック。おまえみたいだろ。どこにでもある素材で、いくらでも作れる。」
皮肉っぽく言えば、彼は、俺はどこにでもいるわけじゃないぞと、青いパーカーのそでをぱたぱたさせて抗議する。
不満です、と言いたげな顔がとても好きなので、ついはにかむと、何笑ってるんだとついにはふてくされられた。これではまるで、好きな子をからかう小学生のようだと思う。何をやっているんだろうか。
「――それで?おまえはいくらぐらいならいいんだよ、自分の値段。」
唐突に話題を変えた。自分のくだらなさから目を背けるためだった。
「え。……今この話の流れでそれきくか?」
「空気はぶった切るもんだ。それに、頭がおかしいのは褒め言葉なんだろ。」
めをぱちくりさせて首を傾げた彼に苦笑しながら、コーヒーをまた啜る。やっぱりまずい。いれたときの温度が高すぎて、苦味が強く出ている――というより、これは豆が悪いな、とため息をついた。鮮度の悪い、古い豆の味がする。道具にばかりこって、豆をけちるからこうなる。豆と淹れ方だけ気を付けとけば、どんな道具でいれたって、良い味がするものなのに。
「おまえが俺の口癖を覚えているとは思わなかった。……自分の値段、か。そうだな。百万円ぐらい……は、だめか?」
すぐには支払えないけれど、手が届かないわけではないぐらいのお値段である。きちんとしばらく働くか、貯金していれば何とかなる範囲。このラインを選ぶあたりが、彼の微妙な自己評価の低さと良識を訴えていた。
「高い。十万円で。」
しかしあいにくと伝える相手が間違っている。
それを払える甲斐性なんぞもっちゃいないのだ。
「十分の一!?」
「うるせぇ。それぐらいで我慢しとけ。第一、人間一人の値段なんて、そんなもんだ。」
それなら今すぐにだって払えるんだよ、という言葉を飲み込んだ。言えるわけがない。こんなこっぱずかしい言葉。
「えええ……どこの相場なんだそれ…!?」
「秘密。――あ、今なら梨十個分でもいいよ」
にやりとわらって付け足して、コーヒーを啜る。相も変わらずぬるくてまずい。けれどこれが一番おいしいと思っている自分が一番まずいのだ。
「梨十個と引き換えなのか俺の命……」
「それ以上求めるのは贅沢だっての。ばーか。」
しょぼくれる彼にまた笑って、外を見る。
――雪はまだどうにもやみそうになかった。
(鈍感な君は気づかない)
(10億よりも好きな果物。丈夫でのびやかで誰にでもほしがられる新素材。手持ちのお金のありったけ。)
(それからこいつがいっとうで、まずいコーヒーを、君が入れてくれたからでお替りしてること。)
(つまりはそいつが僕にとっての――)